城戸家で絶対の権力を握っている兄の厳命と言えども、クロは四六時中瞬を見張っているわけにはいかなかった。
クロにはクロのしたいこととしなければならないことがあったし、氷河は逆に、自分が瞬の側にいることを最優先事項としている。
登校の際はもちろん、氷河は、下校の際にも瞬のお供をする。
瞬は、同じ学年のクロよりも、今は父のいる家を出て瞬の家から数分のところにあるマンションに一人暮らしをしている氷河と一緒に帰宅することの方が多かった。

「クロちゃんと兄さんて、仲がいいんだか悪いんだか……」
兄とクロの朝のやりとりを思い出して、瞬がぼやく。
和室で言うなら12畳ほどの広さのある瞬の部屋のオープンキャビネットには、誕生日やクリスマスに瞬が家族や友人に贈られた小物類が律儀に並べられていた。
それが雑然として見えないのは、瞬の整理整頓好きのゆえんだろう。

瞬の部屋で、瞬自身のベッドやライティングデスクの他に最も場所をとっているものは、濃紺の布が張られた一人掛けのソファだった。
下校時、2日に1日は瞬の家に寄っていく氷河のための椅子。
瞬が中学2年生の時、瞬の部屋にいた氷河が瞬のベッドを椅子代わりにしているのを見て、それを不快に思った一輝が わざわざ購入して瞬の部屋に入れたもの――である。
瞬の兄は、決して氷河に『瞬につきまとうな』とは言わなかったが、ことあるごとに彼への牽制を忘れなかった。

「一輝はおまえ贔屓だろう。――というか、おまえとクロを比べたら、誰だっておまえの方を贔屓するに決まっている。クロは何というか……きついからな」
氷河がそんなことを言うことができるのは、一輝とクロが決して不仲ではないことを知っているからだった。
二人は結託して、『氷河』という同じ敵の排斥に努めているのだ。
氷河の掛けているソファは実に上等のもので、一度身を沈めたら立ち上がるのが面倒に感じられるほど やわらかいクッションが氷河の身体に絡みついてくるようにできていた。
一輝の意図が透けて見える椅子に、文字通り身を沈めて、氷河は小さく吐息したのである。

「クロちゃんは 潔癖なんだよ」
「潔癖? クロが?」
瞬の口から飛び出てきた意外な言葉に、氷河が僅かに目をみはる。
それは瞬のためにある言葉だと、氷河は思っていたのだ。
しかし、瞬は冗談を言っているつもりはないらしく、真顔で氷河に頷いてきた。

「クロちゃんは、純粋で潔癖で、中途半端が嫌いで理想が高いの。半端じゃなく正義漢だし、何もかもを善と悪に峻別して、悪の方を消し去りたいと思っている。でも、現実は、まあ色々あるでしょう。人間は、悪心だけの人はいないけど、善良なだけの人もいない。ものごとだって、良いと思われるものが良い側面だけでできているものでもない。そんなふうに理想だけじゃどうにもならないことが、たくさんあって――クロちゃんはそれに苛立つの。でも、クロちゃんは本当に――僕なんかの100倍も純粋なんだよ」

「クロがねぇ」
身贔屓にしても――瞬はその意識はないようだったが――容易には受け入れ難い意見である。
そして、だが、そんなことの真偽は氷河にとってはどうでもいいことだった。
氷河にはいつも瞬しか見えていなかったから。

「どっちにしても、俺が好きなのは……」
やわらかな鎖のような彼専用の椅子から立ち上がって、ライティングデスクの椅子に腰掛けている瞬の前に立つ。
言葉を途切らせて 自分の前に立つ男を見上げる瞬の瞳をしばし見詰め、それから氷河は その上体を傾けて、瞬の唇を自らの唇で覆った。

これが初めてではない。
多忙な一輝がどれほど横槍を入れてきても、二人には二人になれる時間がいくらでもあったのだ。
初めてではないというのに――瞬はそのたびに全身を緊張させて、氷河のキスを受けとめるのだ。

その唇を離してから、氷河はわざと困ったような顔を作って、瞬に尋ねた。
「どうしておまえは、キスのたびに いちいちそんなふうに身構えるんだ。俺はおまえをとって食おうとしているわけじゃないぞ」
「あ……」
決して責める口調ではないのだが、氷河にそう言われて、瞬は身の置きどころをなくしたように身体を縮こまらせたのである。

瞬がそのたびに身体を強張らせるのは、氷河が望んでいるものがキスだけではないことを知っているからだった。
高校にあがってしばらく経った頃、氷河のマンションを訪ねていた瞬は、そこで氷河にキス以上のことを求められたことがあった。
「まだ、いや」
その一言で、氷河はすぐに引き下がってくれたし、それ以後も彼の態度も変わらなかった。
だが、その視線で感じるのだ。
氷河が本当に欲しがっているものはキスなどではないということを。

だから緊張するのだ――と、瞬は氷河に言うことはできなかった。
決して氷河を嫌いなのではない。
本当に、『まだ、いや』なだけだった。
氷河も実はそのことに気付いているらしいことがわかるから なおさら、瞬はいたたまれなさを覚えるのである。

「あ……だって、クロちゃんがいつ帰ってくるかもしれないのに」
「クロ?」
瞬の見え透いた嘘を、見え透いていると指摘することは氷河にはできなかった。
急ぎすぎた自分のミスを、彼は自覚していた。
無理強いをして瞬を失うことにも耐えられない。

氷河は、だから、瞬の嘘を責める代わりに微かに笑って、瞬の頬にその手を添えたのである。
氷河は、瞬の緊張をやわらげるためにそうしたつもりだったのだが、瞬はますますその身体を強張らせるばかりだった。
瞬には気取られぬように小さく、氷河は溜め息をつくことになったのである。






【next】