クロが家に帰ると、そこにはいつもの通り、彼の双子の片割れがいるだけだった。
てっきり瞬にあれこれと世話をさせて悦に入っているものと思っていた、この家の王様の姿がない。
「一輝兄さんは?」
「残念ながら、お休みはなくなっちゃったみたい。さっき電話で呼び出しがあって、5分でお昼を食べて出てったよ。クロちゃんもお昼にしよ」

瞬は、行き先も帰る時刻も告げずにふらりと家を出ていった自分の片割れが帰宅するのを、昼食をとらずに待っていてくれたらしい。
キッチンでスープを温め始めた瞬に促され、クロは少しばかりの気まずさを覚えつつ、ダイニングテーブルに着いた。
スープ皿をテーブルの上に置く瞬の表情を窺い、やがて 意を決したように口を開く。

「氷河は、瞬より俺の方がいいって言ってた」
「え?」
突然氷河の名を出されたことに驚いたように、瞬がその顔をあげる。
クロは自身を励ますように肩に力を入れて、事前に用意しておいたセリフを一気に食卓の上で吐き出した。

「こないだ、おまえ、たかがキスで震えてただろ。氷河が気の毒になってさ。だから、さっき氷河んち行って、おまえの代わりにやらせてやったんだ。意味わかるか? 氷河と寝てやったの」
「ク……クロちゃん……」
「おんなじ顔なら、そりゃあ、やらせてくれる方がいいよな。ま、あいつはその程度の奴だったってことだ。あいつはもうやめた方がいいよ」
「氷河がそんなこと……」
瞬はクロの顔を見ずに、テーブルの上のスープ皿に視線を据えたまま、頬を青ざめさせた。
クロにはわかっていた。
瞬は、氷河を信じていないわけではない。
瞬はただ、自分の家族の言葉を疑うことができないだけなのだ。

「ぼ……僕は先に済ませたから」
震える手で なんとかクロの昼食の準備を終えると、瞬はそれきり自分の部屋に閉じこもってしまった。
それでもクロは、瞬に『冗談だ』と言ってやる気にはなれなかったのである。
一輝が氷河を嫌う以上に、その何倍も、クロは氷河が嫌いだった。
氷河が瞬に何を求めているかがわかるから。
その気持ちもわかるから。

失われた母親、息子を愛さない父親。それでも生きることに絶望せず、人というものを信じていたい――。
その願いを叶えてくれる唯一の存在、ただ一人の人が、氷河にとっては瞬なのだ。
瞬に同じものを求めているからこそ、クロは氷河が大嫌いだった。
だから、氷河には瞬の側にいてほしくなかったのだ。

それでも――弟を責めることすらせず部屋に閉じこもってしまった瞬に罪悪感を感じ、そんな自分に苛立って、クロは再び瞬のいる家を出た。
冬の外気に触れると、少し頭が冷えてくる。
冷たい空気を肺の中いっぱいに取り込んでから、『これは瞬のためなんだ』と、これまでに幾度も自分に言い聞かせた言葉を、クロはもう一度繰り返した。
これは、だから正しいことなのだ――と。

嘘の内容が内容であり、氷河に対する瞬のこれまでの態度がこれまでの態度である。
瞬は氷河の不実を責めることもならず、その真偽を彼に確かめることもできないだろう。
当然 瞬は一人で思い悩むことしかできない。
そのまま、二人の仲が自然消滅することを、クロは望んでいた。

そうして、瞬は、氷河が兄弟の間に入り込んでくる以前の瞬に戻る。
瞬の同性の恋人は消滅し、瞬がその優しさと善良さを特別に多く分け与える相手は、彼の双子の兄弟だけになるのだ。
それは本来あるべき姿であり、自然で正しいことのはずだった。






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