翌日、クロはいつもより30分も早く起床して、朝食もとらずに一人で先に家を出た。
いつものように氷河が瞬を迎えに来ても、氷河は昨日のことを瞬に知らせるようなことはしないだろうし、瞬もまた氷河を問い詰めたりはしないだろう。
二人にならって 自分も素知らぬ顔をしていればいいのだということは わかっていたのだが、クロは今日は二人と同じ場所にいたくなかったのだ。

あまり広くはない庭の敷石を2つおきに飛び越え、逃げるように急いで門を出る。
そのままクロは学校に向かうつもりだったのだが、残念ながらクロの予定は計画通りに進むことはなかった。
「俺がいつ、おまえと寝たって?」
家の門を飛び出たところで、クロは金髪の不愉快な男の声に呼びとめられた。
ぎくりと身体を強張らせて後ろを振り返ると、自宅の門の横に、クロが今最も見たくない男の姿があった。
特に怒りを露わにしているわけではないが、到底なごやかとは言い難い空気が、彼の周囲を取り巻いている。

だが、クロを何よりも驚かせたのは、彼の姿や態度よりも、彼が口にした言葉の方だった。
氷河を責めることもできず、一人で鬱々と悩み続けるだけだろうと思っていた瞬が、では、氷河に弟の嘘を告げ彼をなじってみせたのだろうか。
それこそ、クロには信じ難いことだった。
だが、事実はそうだったらしい。

「昨日、瞬が俺の家に来て――俺は瞬に泣かれて散々だったんだぞ」
「あの大人しい瞬が、まさか――」
「その大人しい瞬が、まだ日のあるうちから 大胆にも、俺に抱いてくれと迫ってきたんだ」
「嘘だ……!」
そんなことがあるはずがない。信じられるわけがない。
自身の画策が裏目に出たことを知らされたからではなく――キスひとつに震えていた あの瞬にそんなことができたという事実に、クロは驚かないわけにはいかなかった。
そして、クロは呆然とした。

「まあ、一応礼を言っておこうと思ってな」
氷河のその言葉に、クロの驚愕と混乱が頂点に達する。
それはいったい、何に対する礼なのだ。

「そ……それで、貴様は、これ幸いと瞬と寝たのかよ! あの瞬に、よくもそんなことが――!」
瞬と同じ身長のクロが、氷河の襟首を掴みあげてくる。
どれほど きかん気でも、クロが瞬の恋人に腕力で勝てるはずがないのに――と、氷河は、血気に逸った瞬の弟を見おろすことになったのである。
氷河を睨みつけるクロの様子は、番犬というよりは気の立った山猫だった。
しかも、顔だけなら、クロのそれは瞬と同じなのである。
到底 拳を使った喧嘩をする気にはなれない。

「寝てない」
クロの身を案じて――というよりは、これ以上 瞬と同じ顔をした人間が取り乱す様を見ていたくなかったから、氷河はさっさと 瞬の大胆な行動がもたらした結果をクロに知らせた。
「貴様のへたな小細工に乗じて、どさくさ紛れにそんなことができるか。瞬には、おまえはクロにからかわれたんだと言っておいた」

「あ……」
氷河の襟首に伸ばしていたクロの腕と肩から、はっきりと力が抜ける。
ほっと安堵すると同時に、だから自分は氷河が嫌いなのだと、クロは再認識することになったのである。
へたな小細工に乗じてくれるような不誠実な男なら、もっと簡単に心おきなく自分は氷河を憎めるのに――。そう思うと、クロは悔しくてならなかった。
その悔しさを隠そうともせず、氷河の前で唇を噛みしめる。
氷河は、そんなクロを見て、溜め息をついた。

「瞬につまらん嘘を吹き込むな。瞬はおまえを疑えない。瞬はおまえと違って素直にできているんだ」
「素直 !? 馬鹿なんだよ! 瞬は馬鹿なんだ。だから、貴様みたいなずるい奴に騙されて利用されるんだ!」
「俺がいつ瞬を利用した」
「してるだろ! 自分が生きていくために!」
「……」

氷河をなじりながら、クロには、自分の言葉が自分を責めるためのものであるように感じられていたのである。
自分が生きていくために瞬を必要としているのは自分の方なのだと、なぜそう感じてしまうのかもわからないまま、クロはそう感じていた。

氷河は、無言で瞬の弟を見詰めている。
彼はやがて、ゆっくりとクロの非難に答えた。
「反論はできないが……俺は、俺も瞬を支えてやれるような男になりたいと思っている」
へたな小細工――それは陰湿な罠でもあった――を企んだ瞬の弟に向ける氷河の眼差しは至って真剣かつ真面目で、だから、クロは咄嗟に彼に返す言葉に詰まってしまったのである。

「だから、俺はおまえが嫌いなんだっ」
クロは、本当に氷河が嫌いだった。






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