『ごめんなさい』と泣きながら謝ってくる瞬に その行為に及ぶことを促された氷河は、
「おまえが本当にそうしてもいいと思えるようになるまで、いつまででも待つから」
そう言って、瞬を帰らせた。
へたをすると本当に瞬の誤解を利用してしまいそうな自分に、嫌悪と憐れみを感じながら。

「今日は絶対にだめだ。今日のおまえはまともな判断力を失っている」
本意とは言い難かったが、他にどう言えただろう。何ができただろう。
「いつまででも、おまえだけを待つから。もし、おまえと同じ顔をした奴が目の前にいたとしても、それがおまえじゃないのなら、俺には意味がない」
それは決して嘘ではなかった。
これまで待っていられたこと、耐えることができていたこと――である。
望みが叶う日が少し先に延びたとしても、急ぎすぎたことを瞬に後悔させるよりは ましだと、氷河は思っていた。

「『まだ、いや』なだけなんだろう?」
「氷河……」
多分に虚勢を張っている部分もないではなかったが、氷河は瞬のために微笑を作った。
瞬はそれで落ち着いてくれたらしい。
泣き笑いめいた表情になって、瞬は小さく頷いた。
その瞬の顔と、『だから俺はおまえが嫌いなんだ』と悔しそうに叫んだクロの顔が、どことなく似ている――と、氷河は思ったのである。


「不思議だな。おまえとクロと――確かにある意味では、どちらも確かに純粋なのだとは思うが」
クロが瞬を好きなことはわかっている。
クロにとって瞬は、善悪に峻別し難い人間たちの中で唯一、完全な『善』と思うことのできる存在なのだ。

今日の瞬からは、昨日の取り乱しようが嘘のように消えてしまっている。
彼専用のソファに身を沈めて そう呟く氷河の前で、瞬は僅かに瞼を伏せた。
「子供の頃――小学校の2、3年の頃かな。公園で、僕たちと同じくらいの年頃の子が子猫をいじめてるとこに通りかかったことがあるんだ。もちろん、そんなことはやめろって、僕たちは言った。僕たちは2人だったし、その子はしぶしぶ その子猫を解放してくれて――。その子は弱いものいじめをやめてくれたんだから、僕はそれでいいと思った。でもクロちゃんは、何も悪いことしてない動物をいじめる奴は許せないって言って、その子に飛びかかっていって、こてんぱんに のしちゃったの。その子は腕を擦りむくやら、顔やおなかに痣ができるやらの怪我をして、大騒ぎになった。大学生だった一輝兄さんは、後見人の叔父とその子の家に詫びに行って、相場以上の治療費を出して平謝り」

その時のことを、氷河は憶えていた。
激怒した一輝にこっぴどく叱られているクロの横で、瞬は、『クロちゃんは子猫を助けようとしただけなんだよ!』と泣き、クロももちろん、自分は悪くないと言い張っていた。
氷河はといえば、瞬をこんなふうに泣かせるだけでもクロは“悪いこと”をしたと思っていたのである。
今にして思えば、あの時、クロはクロの正義を通しただけなのだ。
そして、その正義が瞬を泣かせることになった――。

「ねえ、僕とクロちゃんとで、どっちが純粋なんだと思う?」
「クロの方……かな」
瞬がそういう答えを望んでいるのがわかるからではなく、事実そうだと思ったから、氷河は瞬の期待通りの答えを瞬に返した。
「うん」
氷河の返答を聞いた瞬が、微かに頷く。
「だが、クロよりおまえの方が優しい。クロは――猪突猛進というか、周囲が見えていないというか……」
クロが彼の正義で瞬を泣かせるのなら、氷河はクロの正義を憎まないわけにはいかなかった。
氷河にとっては、『瞬を泣かせること』以上に“悪いこと”はなかったから。
「クロちゃんは、潔癖で――自分が正しいと思うことをしてるから迷いもなくて、自信に満ちてるの」
「傍迷惑な話だ」
子供の頃ならいざ知らず、クロはもう高校生である。
少しは自分を曲げるということを覚えていい歳ではないか。
氷河は舌打ちをして――舌打ちをしながら、彼は、クロの突飛で傍迷惑としか思えない行動の訳が 初めて理解できたような気がしたのである。
クロは『氷河』という人間を悪者にしたいのだ。
悪者なら、傷付け、完膚なきまでに叩きのめしても罪にはならない――とクロは考え、そうなることを期待している――。

「正義が行なわれることで混乱をきたす世の中の方がおかしいのかもしれないが、今のままでいると、クロはいつか大きな落とし穴に落ちることになるぞ。しかも、クロの正義は時に独善的だ」
排斥するために悪を作ろうとする――。
それでは本末転倒もいいところである。
瞬の弟の無謀に、氷河が さすがに心配顔を浮かべる。
瞬は氷河の言葉に頷きかけ、だが、途中で頷くのをやめた。

「クロちゃんにそのままでいてほしくて――僕はクロちゃんの分も、世の中の矛盾や汚れを引き受けることにしたんだ。クロちゃんが正しいと思うことを通そうとすることで生じる弊害を緩和する役目を、僕が担おうと思った。クロちゃんには自分が正しいと思うことを貫き通す勇気がある。僕にはそんな潔さはない。だから、クロちゃんにいつまでもそんなふうでいてもらうためになら、僕は卑怯者になってもいいって思ったんだ。クロちゃんを守るためになら、僕はどんなひどいことも卑怯なこともしよう……って」

いったい瞬がクロのためにそんな決意をしたのはいつのことなのだろう。
クロと接している瞬の態度が目に見えて変わった日を、氷河は憶えていなかった。
もしかしたら瞬は、その決意をする以前から、既にそういう者であったのかもしれない。

「なのに……変だね。汚れや矛盾を引き受ければ引き受けるほど、僕は素直で優しい子だって言われるのに、クロちゃんは逆につらい立場に追い込まれて――。本当に素直で純粋なのはクロちゃんの方なのに」
クロのために為したはずの決意がもたらした皮肉な結果――に、瞬が悲しそうな吐息を洩らす。
兄弟とは、双子とは、こんなものなのだろうか――と、氷河は思ったのである。
自身の片割れが自由であるために、自らを不自由なかせで繋ぐ瞬。
それは、兄弟のいない氷河には理解できない感覚だった。
白と黒のどちらかを、たとえ元は一つだった片割れのためとはいえ、人は選ぶ必要はないではないか。
まして、瞬が、『黒』を選び取ることはない。

「おまえも、クロのために一途で清らかなんだ。だが、そんなものを全部をおまえが負うことはない。純粋すぎると、苦しむのはクロの方だ。世の中は、クロが望むように清浄なものじゃない。人の心は善だけでできているわけではないし、悪だけでできているわけでもない。単純でもなければ清らかでもない。クロはそのことを知った方がいい」
瞬を抱きしめたいのに、その気持ちを隠して、クロが言ったように毎晩 夢の中で瞬を犯している男もいる。
だが、それは罪だろうか。悪なのだろうか。
氷河は、そのみじめさを瞬のために耐えていた。

「うん……」
その言葉を噛みしめるように、瞬は氷河に頷いた。
自分の行動が決してクロのためにはならないことを、瞬は今ではわかっているようだった。
ゆっくりと顔をあげ、自分の目の前にいる金髪の男の青い瞳を見詰める。
それから、瞬は、ふいにひどく嬉しそうな笑みを、その目許に浮かべた。

「氷河、好き」
「なんだ、急に」
「僕はずっと、クロちゃんをわかってくれる人じゃないと好きになれないって思ってた。クロちゃんを悪く言う人たちとは絶交してきた。氷河はちゃんとクロちゃんを見ていてくれる。優しい……」
「……」
氷河がクロを『見ている』のは、クロのためというより、瞬のためだった。
『ちゃんと』見ていないと、クロは妙な方向に暴走し、瞬に迷惑をかけかねないのだ。

それにしても、絶交――とは。
昨日の出来事で気付いてはいたが、一見 人に逆らうことなどできそうにない風情をしていながら、瞬は思いがけないところで激しい。
瞬に絶交を言い渡された者たちは、さぞかし慌てて、瞬に詫びを入れてきたことだろう。
瞬に嫌われるということは、『人間失格』の烙印を押されることと同義と感じる者は多いはずだった。

「氷河、好き」
瞬がその言葉を繰り返す。
氷河は瞬を抱きしめたい衝動にかられた。
だが、今瞬を抱きしめてしまったら、きっとそれだけでは済まないことはわかっている。
だから氷河は、自らの内に湧きあがってくる衝動を無理に抑え込み、視線を横に泳がせた。

「しかし、今のままだと、クロは本当に――奴自身の独善で破滅するぞ。あれは少しは妥協することを覚えた方がいい」
「うん。そうだね……」
氷河にそう言われると、瞬は甘い微笑みを消して、縦にとも横にともなく首を振った。






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