恋と 身を飾ることにしか興味がない享楽的な民ばかりを抱えているものと思っていた南の国の王宮が存外に飾り気のない造りになっていることを、実はヒョウガはこの城にあがった時から意外に思っていた。
この王宮に比べれば、王族の気質が硬いことで名を馳せているヒュペルボレオイの王宮の方が、はるかに華美な装飾が施されている。
もちろん、北の国のそれは、享楽のためではなく、華美な調度や装飾によって王宮を訪れた者たちに国力を誇るための威圧的なものだったが。

エティオピアの王宮が、その強大な国力に釣り合わない素朴さをたたえているにも関わらず、見る者にみすぼらしい印象を与えないのは、その素朴な城のどこにも明るい陽光があふれているからなのかもしれなかった。
そこは、とにかく明るい場所だったのだ。

先程シュンに意味ありげな合図を送っていた若い兵に案内されて謁見室から図書館に向かう道すがら、ヒョウガは、この王宮で働いている者たちの姿に出会うことになった。
警備の兵、女官たち、下働きの者――。
農作物の不作のこと、この国の民が数ヶ月後には飢えに苦しむことになるかもしれないことは知っているはずなのに、彼等の表情は おしなべて明るかった。
彼等はもしかしたら陽光を食して生きていける人種なのではないかと思えるほどに。
中には、ヒョウガとその案内人の姿に気付くなり、あからさまに吹き出す者もいて、ヒョウガはひどく居心地の悪い思いをすることになったのである。

それでも、これでやっと仕事にとりかかれるのだと意気込んで、ヒョウガは案内された部屋に入った。
が、そこには、羊皮紙の資料が詰まれた大円卓があるきりで、しびれを切らしてヒョウガを待っているはずの人物はいなかったのである。
立ち去りかけていた案内の兵をヒョウガが呼び戻そうとした時、ヒョウガのあとを追うように息せき切って閲覧室に飛び込んできた初老の男性がいた。
それが、ヒョウガの到着前から ヒョウガの登場を待っていた“現況を説明できる者”だった。

呼吸するのも苦しそうな様子で名を名乗ると、彼は自慢にならない程度に、自分がエティオピアでは権威ある農学者だということを遠来の客に告げた。
その大先生に、そして、ヒョウガは、シュンがくだらない話でヒョウガを謁見室に引きとめていた理由を知らされたのである。

「いや、もう、このお務めは王の厳命でしたので、指定の時刻に遅れるようなことがあってはならないと、私は、いつもよりかなり早く起床して王宮にあがる準備をしていたんです。が、それが早すぎたのが災いしてしまったんですな。まだ少し間があると思って うたた寝をしたら、つい本格的に寝込んでしまったようでして」
椅子に腰をおろして、まるで他人事のように、彼は彼の遅刻の訳をヒョウガに語ってくれた。

「日が高くなっていることに気付いて慌てて家を飛び出た――まではよかった。ところが、実は私は馬には乗れないので、外出には専らロバを使っているんですが、これがまた今日に限って なだめてもすかしても動いてくれない。これなら自分の足で走った方が早いと考え直して、町で出会った友人にロバを預けて、王宮まで駆けてきたんですよ。全力疾走なんて、30年振りのことで、王宮に辿り着いた頃には、膝はがくがく、足はふらふら。中庭を突っ切る間に、3度もすっ転んで、額を擦りむくやら、尻餅をついた拍子にクラミスが破れるやらで、もう散々な目に合いました。この城の者たちは皆、私が大遅刻していることを知っているくせに、笑ってばかりで助け起こしてもくれないんだから、ひどい話で。まあ、シュン様が代わりのクラミスを用意してくださいましたから恨み言は申しませんが」

大先生がヒョウガのあとから この部屋に駆け込むことになったのは、着替えに時間をとられていたからだったらしい。
ヒョウガは、つまり、この大先生のとばっちりを受けて人々に笑われていたのだ。
ヒョウガが渋い顔になると、大先生はそのヒョウガにつられるように急に真顔になり、声をひそめた。

「王にはどうかご内密に。王はご自分の命令が指示通り完璧に実行されないと、烈火のごとく お怒りになる大変厳しいお方なんです」
大先生にそう言われて、ヒョウガは、『到着前から』とシュンが妙にその部分に力を入れていたことを思い出したのである。
シュンは、大先生が王の命令を指示通り完璧に遂行したことにするために、そういう言い方をしたものらしかった。

「大切な客人を待たせたことが王に知れたら、王は、学問しか知らない哀れな学者の この貧相な身体に、まず20は鞭をくれることでしょう」
どちらかといえば、ふくよかな身体を揺するようにして、彼はヒョウガに肩をすぼめてみせた。
「それでシュンは――」
シュンは、彼の大遅刻を隠蔽し、“大切な客人”を待たせないために、ヒョウガを詰まらない話で(おそらくは必死に)引き止めていたのだろう。

「二人きりのご兄弟なので、王はシュン様にだけは甘いのです。シュン様のとりなしがなかったら、王の逆鱗に触れて鞭打ち刑を受ける者の数は現在の倍になるだろうと、もっぱらの噂です」
「……エティオピアの王は随分短気な王のようだな」

危機感のない王子だと思っていたのだが、あの妙に人なつこく可愛らしい顔をした王子は、意外と気苦労の多い日々を過ごしているのかもしれない。
国の存続を危うくするかもしれない国難の解決と、小太りの学者の鞭打ち刑の回避とでは、どちらが優先されるべき問題なのかの判定はともかく、シュンは、自らの好奇心を満たすために あの無思慮と軽率を為したのではないということだけは事実らしい。
ヒョウガは少しばかり、エティオピアの王子への自らの認識を修正することにしたのである。


その寝坊な農学者は、思いがけず有能だった。
代表的な農作物・果樹の数十品目に渡る観察結果の報告は ほぼ完璧、不作の程度を地理的条件と突き合わせて導き出した関連性までを詳細にヒョウガに説明してくれた。

それによると、この不自然な不作は、エティオピアの農耕地・果樹園の7割に及び、不作の程度は、海岸に近い農地ほど深刻で、地味ちみのよくない山間部に向かうほどに軽微であるということだった。
農作物や果樹だけでなく、他の植物・雑草の類までが生気を失い、枯れかけている。
そして、彼は、これは植物の既知の伝染病によるものではないことを断言した。

大先生の報告は申し分のないものだったが、ヒョウガはそれでますます判断に悩むことになってしまったのである。
もともと農業の分野は得意ではない上に、ものごとは、『αはβである』ことの証明より『αはβではない』ことの証明の方が困難な仕事なのだ。
大先生は既知の伝染病ではないと自信満々で断言してくれたが、未知の伝染病の可能性を否定はしなかった。

「これではまるで、エティオピアの大地がヒュペルボレオイの大地と入れ替わってしまったようだな」
ヒョウガが決してありえないことを自虐的に呟くと、寝坊の農学者は、ヒョウガのその発言を笑うべきなのか沈痛な表情を作るべきなのかを迷ったような顔つきになった。
迷ったあげく、結局彼は笑ったが。
迷った時には笑う――というのが、どうやらエティオピアの流儀らしかった。






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