エティオピアとヒュペルボレオイの何万何十万という民が飢えて死ぬかもしれない事態が、一人の人間の命を捧げることで回避される。
命を求められる当人は、国と民のために存在する王家の一員で、しかも自国の民を愛している。
誰もがその犠牲を悼むだろうが、肉親として その死を嘆き悲しむ者は国の王である兄ひとりだけ。最小の犠牲で最大の利益。
それは、ポセイドンを寛大な神と評していいような、願ってもない神託だった。
しかし、ヒョウガの心は晴れなかったのである。

「おまえは――恋人はいるのか。アフロディーテが、おまえの命は一生に一度の恋のためにあると、おまえの運命に言及していたそうだが」
「いません。僕を生け贄に奉げろという神託だったの?」
察しがいいのも困りものである。
既にポセイドンの神託の内容を察していたらしく、シュンは、ヒョウガが言い澱んでいたことを、彼に代わって躊躇らしい躊躇も見せずに言葉にした。

「……そうだ」
それは事実なのだから、否定することに意味はない。
だというのに、『そうではない』とシュンに言ってやることのできない自分に怒りを覚え、ヒョウガはシュンの上から視線を逸らした。

「僕がその人にまだ出会っていなかったのは幸いでしたね。僕もその人も苦しまずに済む。いつですか」
シュンの口調には、まるで他人の上に起こった災難を語る人間のそれのように、重さがなかった。
否、シュンは、それが我が身に降りかかった不運だからこそ――大切な民の上に降りかかった不幸ではないからこそ――そんなふうに語ることができるのだ。
シュンが 自らに非のないことで払わなければならない犠牲の理不尽を嘆き憤るような人間だったなら、ヒョウガは『それが王族の務めだ』と、シュンの説得にとりかかっていただろう。
だが、シュンはそういう人間ではなかったので、ヒョウガには為す術がなかった。
シュンに問われたことに短く答えることの他には。

「次の満月が海の上に現われた時」
「もう3日もありませんね。兄さんにもお別れはできないかな」
『王』ではなく『兄』。初めてシュンが普通の人間のようなことを言う。
ヒョウガはシュンの上へと視線を戻し、その視線に気付いたシュンが――無論、それは晴れ晴れとしたものではなかったが、それでも――微笑む。

ヒョウガを見詰めるシュンの瞳は潤んでいた。
ヒョウガはその瞳から目を逸らすことができなくなった。
シュンの瞳が潤んでいるのは、我が身の不運を嘆いているからではないように、ヒョウガには見えた。
それは、ヒョウガを見詰めて悲しげだった。






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