(俺は何を考えているんだ。シュンの命を救う方法? そんなものを考えて何になる。シュン一人の犠牲でエティオピアは救われる。北の国も救われる。それはささやかな犠牲だ。そのささやかな犠牲を奉げることを拒んだら、どんな事態が起こるのか、俺はわかっているはずだ) 海の上に浮かぶ白い月は、まもなく真円になろうとしていた。 日中には聞こえてこない波の音が、夜にはエティオピアの王宮のヒョウガの部屋にまで、そのざわめきを運んでくる。 その夜、ヒョウガは眠れなかった。 ヒョウガが夜の王宮の庭に出たのは、繰り返し寄せてくる波のように我が身を訪れる愚考を振り払うためだった。『シュンを助けたい』という愚考を。 高台にあるエティオピアの王城の庭は、さほど広くはない。 北の国とは比べようもない暖かさにも関わらず、庭の木々は打ちしおれ、不吉に白い月の光を受けて悲しげに佇んでいる。 シュンは眠れているのだろうかと、ヒョウガが冷酷な月を見上げて思った時、ふいに彼の耳に女の声が聞こえてきた。 「シュン、おまえはあの男に恋をしたの」 「僕は――」 女の姿は見えなかったが、その声に答えたのは、紛れもなくシュンのそれだった。 声のした方に顔を巡らすと、月の光に照らされているバルコニーにシュンの姿が一つだけある。 シュンは虚空を見詰め、その女の声は虚空から響いてきていた。 いったいシュンは誰と――何と――言葉を交わしているのだと訝りながら、ヒョウガは露台に立つシュンの白い姿を見上げたのである。 「どこがいいのかしら。あんな朴念仁の。この私に、地上の人間の中で最も愛されているおまえが、よりにもよってあんな愚かな男に」 「アフロディーテ様……」 哀願するような口調で、シュンがその女の名を口にする。 シュンの唇が作り出したその名に、ヒョウガは己れの耳を疑った。 それが、ヒュペルボレオイの王族に呪いをかけ、結果的に彼の父母を殺した憎い女神の名だったことに驚き、仮にもオリュンポス12神に数えられている有力な女神が、神殿ではない場所で気安く人間と言葉を交わしていることに驚いて。 だが、ヒョウガを最も驚かせたのは そんなことではなく―― 「私には わかっているわよ。あの男は本当は誰かを愛したくてたまらないの。人を愛することは無益なことだという馬鹿な思い込みに邪魔され、その上 誰を愛せばいいのかがわからないから、あの男は人を愛することができずにいる。あの男にできるのは、せいぜい黄泉の国の住人を思うことだけ。愛したい気持ちだけが はち切れそうに大きくなるばかりで、行き場を見付け出せずに苦しんでいる。おまえは そんなあの男を助けてやりたいのでしょう? そして、せき止められている あの男の情熱のすべてを その身に受け止めることができたら、どんなに素晴らしいだろうかと夢見ている」 シュンが恋し、助けたいと思っている男――その幸運な男は誰だと疑う側から与えられた答えに、ヒョウガは何よりも驚かされた。 「僕はただ、ヒョウガに楽になってほしいだけです」 シュンはそう言ったのだ。 愛と美の女神に向かって。 「まあ、綺麗な男だし、おまえの気持ちもわからないではないけど」 ふふふと シュンをからかうように、女神の声は笑った。 「おまえも自分の気持ちがわかっていないようね。どうしてこんなに急に自分の中に恋心が生まれてきたのかと戸惑っている。でも、恋とはそういうものなのよ」 愛と美の女神は彼女の気に入りの人間が、彼女の力に屈したことを楽しんでいるようだった。 シュンはまもなく その命を奪われようとしているのに、愛は死よりも強く価値があると確信するように、彼女はシュンへの憐れみを見せない。 「あの男がおまえに恋するようにしてあげましょうか」 「だめっ! そんなことをしたら、ヒョウガが死んでしまう……!」 自分が北の王家にかけた呪いを彼女は忘れているのか――と、最初ヒョウガは腹立たしさと共に訝ったのである。 しかし彼女は、彼女の為したことを忘れているのではないようだった。 「では、恋心ではなく、抑え難い欲望を運んであげましょう。北の国の王家の者は、愛していない者も平気でも抱くことができるらしいから。楽しいのかしらね、そんなことをして」 「アフロディーテ様……」 「そうすれば、あの男はともかく、恋しい男に抱いてもらえるおまえは喜べるでしょう」 アフロディーテはただ、他の何よりも愛の力と価値を信じ、愛以上に人を支配するものも、愛以上に人を幸福にするものもないと思うがゆえに、他のあらゆることに関して冷酷になることのできる神であるらしい。 彼女は、自分が無慈悲なことを言っている自覚もないようだった。 無慈悲な愛の女神に、シュンが静かに左右に首を振る。 「僕は……僕の両親がどんな人たちだったのかを知らない。亡き両親の望む通りの人間になりたいと思っても、両親が僕に何を望んでいたのかがわからないんだから、僕は、僕をこの世に送り出してくれた人たちのために何もできないのだと思っていた」 夜の庭に響くシュンの声は、冷酷な女神のそれに比して、ひどく温かい。 灯りと言えるものは月の光しかない夜の中だからこそ、シュンの声の人間らしい優しさと温かさを、ヒョウガは身体に染み入るように明確に感じとることができた。 「でも、そんなこと、両親がどんな人たちだったのか知らなくても、両親に訊いてみなくてもわかることだった。生きて幸せになってほしい……って、両親は僕にそれだけを望んでいたと思う。僕がヒョウガに望むこともそうだから」 「愛されなくてもよいというの」 「だって、僕はヒョウガを幸せにしてあげられないんだもの……!」 シュンの優しい響きの声が、ふいに涙を帯びる。 「僕がポセイドン様の生け贄になれば、エティオピアは救われる。エティオピアから運ばれる食料に頼っているヒュペルボレオイの国の民も救われる。それでヒョウガには、2つの大国を救ったという栄誉が与えられて、お母様やお父様の汚名を晴らすことができる。それが 僕がヒョウガのためにしてあげられる唯一のことで、それは、僕の命は一生に一度の恋のためにあるっていう運命の神の予言通りのことで――」 だから逆らうわけにはいかないのだと告げるシュンの心が、『生きたい』『生きていたい』と叫んでいるのが、ヒョウガには聞こえていた。 シュンは本当は生きていたいのだ。 生まれ育った故国と国の民、短気な兄と愚かな恋人。 生きていればこそ、それらのものを愛し見守ることもできる。 シュンは生きていたいのだ。 しかし、シュンの願いは叶わない――。 「かわいそうに。あんな愚かな男を愛したばかりに」 冷酷な女神の声に、ほんの少しだけ憐れみの色が混じった。 |