『ヒョウガはお母様をとても愛していたんだね』
『僕、父の顔も母の顔も知らないの。お母様のためにできることがあるヒョウガが羨ましい――』
ヒュペルボレオイの正統な王家の者なら決して悩まないはずのことに、ヒョウガは悩み続けていた。

ものごとは犠牲なしに成し得ることの方が少ない。
それが多くの民の益になることなのであれば、そのために犠牲を払うのは当然のこと。
その犠牲をより些少なものにする方法を考えることが、ヒュペルボレオイ王家の者が採る問題解決法であり、シュン一人の命で数十万の民の命が救えるのであれば、それは限りなく最良に近い結果のはずだった。

その上、人間相手のことならともかく、これは神の力の関わることである。
人間は、神に逆らう力など持っていない。
それはわかっているのだが――わかっていても、運命に逆らい、運命を変えたいと、ヒョウガは考え続けていた。


やがて真円の月が海の上に姿を現す日が訪れ、ポセイドンの神託を知らされた ごく少数の神官や兵たちの手によって、シュンがエティオピアの海岸の岩場に鎖で繋がれた時も、その様を見詰めながらヒョウガは考えていた。
シュンの犠牲を知ったなら、エティオピアの民の誰もが涙を流すだろう。
神託を潔く受け入れたシュンに感謝し、その決意をシュンらしいと思い、同時に、それは王家に生まれた者の義務と納得するのだ。

事実、ポセイドンの神託を知らされたエティオピアの民たちは、神への供物にされるシュンの姿を痛ましげに見やりながら、それでもシュンの両手を鎖で大岩に縛りつけ、自分たちは波の届かない安全な場所にまで さっさと引きあげてきたではないか。
そして、その安全な場所に、ヒョウガも立っているのである。

シュンは、浜に退いた神官たちの横にいるヒョウガの姿に気付くと、小さく微笑んだ。
それが決して運命を恨んでいるようにも、自分をその運命に導いた男を恨んでいるようにも見えない。
シュンの身に着けている白い衣装が夕陽の色に染まる。
太陽はまだ完全に沈んでいないというのに、性急な太陽の妹は、 早くもぼんやりと海の上にその輪郭を現し始めた。
シュンの唇が控えめに動き、それがこの世で最も愚かな男の名を呼ぶためのものだと気付いた時、ヒョウガは自分を更に愚かな男にすることを決意したのだった。

シュンが守ろうとしているエティオピアの国も その民も、エティオピアが滅びることによって飢えることになるかもしれない北の国も その民も、もうどうなってもいいと思った。
亡くなった者たちの名誉、自分自身の命。そんなものがシュンより大事なものであるはずがない。
少なくとも今、“ヒョウガ”という個人には、シュン以上に価値のあるものは、この世界のどこにも存在していなかった。
“ヒョウガ”は、北の大国の王族にはどうしてもなりきれない、ただの無力な一人の男なのだ。
それでいいと思った。

月の女神の登場と共に、エティオピアの海は不自然なざわめきを示し始め、その海面は徐々にせり上がり始めていた。
「シュン……!」
隣りに立つ神官の手からシュンを鎖から解き放つための鍵を奪い取り、ヒョウガは岩場を駆けおりた。
そして、シュンを運命に縛りつける鎖に手をかける。
「ヒョウガ、何をするの !? 」
シュンの声は困惑よりも非難の色の濃いものだったが、ヒョウガはそれがシュンの本心ではないことを知っていたので――本心であったとしても、真実の望みではないことを知っていたので――聞こえぬ振りをして、シュンの手首を束縛している二つの枷を掴みあげた。

「生きるにしても、死ぬにしても、おまえと一緒に」
「ヒョウガ……」
こんなことをしたら、生きていられないことはわかっていた。
それでもヒョウガは、自分が生きていくために、死に向かうその行為に挑んでいた。
「おまえのために死ねるのなら、それが、俺にとっては生きるということだ」
「そんなの だめっ。ヒョウガには生きて しなきゃならないことがあるんでしょう !? お母様とお父様のために――」
シュンはヒョウガのしようとしていることを思いとどまらせようとしたのだが、鎖に自由を奪われていることが、逆にシュンの抗いを無意味なものにした。
「俺の父も母も、俺がおまえを見捨てることを望まない」

両手の自由を取り戻させられて、シュンは呆然としてしまったのである。
そんなシュンの身体を、ヒョウガはきつく抱きしめた。
シュンの唇をふさぎ、シュンの訴えを遮る。
シュンは、ヒョウガの腕の中で、彼の為した無謀に怖れ怯えるように肩を震わせていたが、恋しい人の唇になだめられ、やがて うっとりと瞼を閉じてしまった。
唇を僅かに離し、ヒョウガがシュンに囁く。

「父も母も、俺がこうすることを喜んでいる。俺が恋を知ることが、両親の願いだったと思う」
「ヒョウガ……」
「俺はおまえを愛している。ポセイドンの怒りもアフロディーテの呪いもどうでもいい。どちらにしても俺はおまえなしでは生きられない」
「ああ……!」

喜べばいいのか悲しめばいいのかが わからない。
嵐のような轟音を響かせて、大きな波が二人のいる岩場に迫ってくる。
自分の頬を濡らすものが水しぶきなのか涙なのかもわからないまま、シュンはその両腕をヒョウガの首にまわし、彼にしがみついていった。

そうして二人は巨大な波に飲み込まれてしまったのである。
深い海の底に引き込まれていく二人の耳に、不思議な声が聞こえてきた。






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