誰かに名を呼ばれたような気がして 瞬が後ろを振り返ると、リネン室の入り口に、この養護施設を兼ねた教会の管理運営責任者である牧師が立っていた。
プロテスタントの牧師である彼は、普段は黒いガウンは着ておらず、一般信徒と同じようにスーツにネクタイを締めていて、一見した印象は地方の小さな小学校の校長というところである。
昔――瞬が幼い子供だった頃――に比べると、額には皺が増え、髪にも白いものが混じり始めていたが、子供たちを見詰める穏やかな眼差しだけは今も昔も変わらない。
一度はこの施設を出た瞬が、行く当てもなくここに戻ってきた時にも、彼は同じ眼差しをして瞬を この場所に迎え入れてくれた。
瞬にとっては、言葉では尽くせないほどの大恩ある人だった。

洗濯を繰り返しすぎたせいで古びてしまったシーツや子供たちの洋服をたたんでいた手を止めて、瞬は、ほとんど反射的に彼に微笑んだ。
「牧師様。こっちはもう終わりますから、すぐ昼食の用意の手伝いに行きます」
「ああ、いや、いいんだ。おまえはどうも何かを忘れるために無闇に働きたがっているように見えるが、無理はいけないよ。いつまでも逃げ続けているのもよくない」
「……はい」

彼は勘がいいわけではないし、また、瞬がここに戻ってきた事情を知っているわけでもない。
語りたくても、瞬はその事情を知らなかった。
彼が瞬の心情を的確に察知してしまうのは、彼が 彼の預かり養っている子供たちを いつも気遣い見守っているからなのだと、瞬は思っていた。
記憶をなくしているのでなかったら、瞬はすべてを彼に話し、思い遣りにあふれた彼の助言を仰いでいただろう。
だが、瞬はそうすることができなかった。
この施設を出てから数年間の記憶がない瞬には、彼に何をどう相談すればいいのか、それすらもわからなかったのだ。

瞬が何も語らないことを責めもしない瞬の恩人が、ほうっと短い溜め息を洩らす。
瞬に語らせる代わりに、彼は彼がここにやってきた訳を瞬に告げた。
「それはさておき、また例の広告代理店の方々が来ているんだ」
「え?」
「今日はクライアントの企業の広報部の方と一緒に」
「……」
瞬は、恩人に溜め息を分けてもらったように吐息することになった。
それは実際、嘆息を禁じ得ない用向きだった。

『例の広告代理店』は今、名を聞けば10人中9人までが その存在を知っている某アパレルメーカーの仕事を請け負っているのだそうだった。
子供向け・シルバー向けの衣料をメインに据えて大成功を収めた その会社が、この冬 社運を賭けたヤング〜アダルト向けのユニセックスのブランドを発表することになり、そのPR戦略を任された広告代理店は、どこで目をつけたのか、そのイメージモデルに瞬を起用したいと申し出てきたのである。

瞬はいわば、運営状態の芳しくない養護施設の下働き、である。
当然二つ返事で引き受けるものと考えていた少年から思いがけない拒絶を受けてからも、広告代理店の企画担当者は食い下がり続け、2日とおかずにこの教会に通い詰めていた。

「お断りしてください。僕は、そういうことには興味もないし、向いてもいないし」
「それが……」
いつもなら、瞬の意思を何よりも優先させくれる牧師が、妙に言葉を濁らせる。
その訳を瞬が知ったのは、瞬が彼と共に遊戯室に行き、そこで子供たちの歓声に迎えられた時だった。

「わー、KIKI-HOUSEのセーターだ! これすげー高いんだよな。これ着てるだけで、女の子にモテるくらい」
「ずっとずっと欲しかったの。こういうリボンのついたキュロットスカート!」
「これ、お下がりじゃないんだぜ。俺だけのなんだぜ」

「……」
遊戯室の中央にある大テーブルには、華やいだ色の子供服が山のように積まれていた。
将を射んと欲すれば、まず馬を射よ。
国内屈指の有名大手アパレルメーカーは、いよいよ切羽詰まって手持ちの武器を大量投入してきたらしい。
喜びはしゃぐ子供たちに、瞬は、それを返すようにとは言えなかった。






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