「こっちのソファが、背もたれを倒すとベッドになるんだ。お風呂はあっち。洗面台の上の棚に使ってないタオルがあるから、好きに使って」 エントランスから部屋に辿り着くまでに、2箇所のカメラチェックパスと、IDカード、指紋、パスワードが必要なマンションは、入ってしまいさえすれば完璧にプライバシーが守られた鉄壁の城だった。 その城に妙に生活感がないのは、瞬がこの城を1年間だけの仮の宿と思っているからで、つまり、この城は瞬にとっては旅行先のホテルのようなものだった。 瞬の説明を聞いているのかいないのか、無感動な目をして、氷河はそのホテルの部屋を一渡りだけ見まわした。 自分がどこに連れ込まれたのかということにすら、ほとんど頓着していないような彼の様子を見て、瞬は ふいに嫌な予感に襲われたのである。 「……富山から歩いてきたって言ったよね? お風呂入ってる?」 「4日入っていない……かな」 「やだっ早くっ」 自分の置かれた状況に不安も興味も覚えていないような男は、やはり自分自身のことにも あまり気をまわさない人間であるらしかった。 いくら顔の造型が整っていても、不潔な人間と起居を共にしたくはない。 瞬はほとんど彼の背中を押すようにして、彼をバスルームに閉じ込めた。 そうして安堵の息をついたのも束の間、今度は、彼はバスやシャワーの使い方を知っているのだろうかという、新たな危惧が生まれてくる。 1時間は出てこないでほしいと期待して 一度は勢いよく閉めたバスルームのドアを、結局瞬は再び恐る恐る開けることになった。 「氷河、お風呂の使い方、わかる?」 脱衣所のドアを開けると、氷河は既にそこにはいなかった。 曇りガラスの向こうに、彼の身体の輪郭がぼんやりと映り、シャワーの音が聞こえてくる。 さすがの彼も、そこまで常識が欠如しているわけではないらしい。 ほっと安心してリビングに戻ろうとした瞬は、脱衣所の脱衣籠にある氷河の服に気付くと、それをまとめてランドリーに放り込んで、そのスイッチを入れた。 「いったいどーゆーセンスなの、この真冬にノースリーブ!」 おそらく彼は、あまりにも突飛な服を、あまりにも堂々と着ていたから、そのために逆にファッション関係者と間違われて、あの新作発表会の会場にも入れてもらうことができたのだろう。 汚れてはいたが、彼が綺麗な男ではあることは、瞬にも否めなかった。 「ほんとに変な人。ぼーっとしてるし」 リビングに戻り、ソファに腰をおろすと、瞬は、氷河という人物の評価を忌憚なく口にした。 一人暮らしを始めてから、瞬には、考えていることを声に出してしまう癖がついてしまっていた。 だが、瞬にとって『ぼーっとしている』は、決して悪い評価ではなかったのである。 それはつまり『世話のやき甲斐がありそうだ』ということで、瞬は実は、手のかかる人間が大好きだったのだ。 思わぬ拾い物をした気分で、瞬はその胸を弾ませていた。 それは、養護施設の子供たちから引き離され、モデル稼業を始めてから すっかり忘れていた高揚感だった。 「でも、明日からどうしよう。僕は仕事があるし……」 手のかかる人間をどうすべきかという善後策を考えるのも楽しい。 いざとなったら付き人ということにして一緒に仕事場に行けばいいかと、瞬が考え始めた頃、氷河が、瞬の好きな“ぼーっとした”様子でリビングに現われた。 「瞬」 わざとなのか何なのか、彼は、バスタオルを頭に引っ掛け、身体を隠していなかった。 名を呼ばれ後ろを振り返った途端に、とんでもないものを見せられて、瞬は一瞬 頭の中が真っ白になってしまったのである。 なんとか気を取り直して彼の無作法を咎めようとした瞬に、氷河が一言、 「服がない」 と言う。 「あ……」 そういえば、氷河とその服を綺麗にすることにばかり気を取られ、彼の着替えのことを全く考えていなかった自分に、瞬は今になって気付いた。 彼の無作法の原因の半分は自分にあると思うと、一方的に彼を責めることもできない。 そして、どう考えても、氷河に瞬の服は入らない。 それでもできればタオルは別のところを隠すのに使ってほしいと思いながら、瞬は彼の“別のところ”から目を逸らして、掛けていたソファから立ち上がったのである。 「も……もしかしたら、今時のコンビニってパジャマくらい売ってるのかな。氷河はここにいて。僕、ちょっと出掛けてくる」 ちらりと見た限りでは、彼は、人前に堂々と裸体をさらせるのも当然なものを、その身に所有していた。 これは劣等感からくるものではないと思いながら――瞬はそう信じたかった――、なぜか瞬はその事実に いたたまれなさのようなものを感じていた。 隠す気もないのはお国柄なのだろうかなどと、どうでもいいことを無理に考え、瞬は、ほとんど逃げるような気持ちでリビングを出ようとしたのである。 「瞬……」 その瞬の腕を、氷河が掴んでくる。 さりげなく引き止めただけの仕草に見えたが、瞬の手首を掴んだ氷河の手には、容易に振りほどけないほどの力が込められていた。 身体を引き寄せられ、次に、視線で視線を絡めとられる。 瞬は、彼の青い瞳から目を逸らすことができなかった。 しばし無言で見詰め合う。 彼が何を求めているのかは、まもなく瞬にもわかった。 「ぼ……僕、女の子じゃないよ」 それが『YES』の返事になっているとは瞬は思わなかったのだが、氷河はそれを強引に彼の望む通りの答えに変えてしまった。 「わかっている。おまえのベッドの方がいいか?」 彼の強引さを図々しいと責められるだけの余裕は、瞬には持ち得ないものだった。 |