「僕のこと、軽率な人間だと思ってる? 知り合ってすぐこんな」
共に暮らすようになって半月も経ってから そんなことを訊くのもおかしなことだと、瞬は思った。
だが、瞬はこれまで、氷河にそんなことを確かめる勇気さえ持てずにいたのだ。
出会ったその日のうちに、どこの誰とも知れぬ相手に対して離れ難い思いを抱くようになることは、あまり普通のことではないという認識があったから。

「いや」
自分の裸の胸に頬を押しつけてくる瞬の肩を抱いて、氷河は短く答えた。
いつもなら――つい昨日まで――暴君の暴力的な愛撫を受けるたび『もうやめて』と懇願するばかりだった瞬が、今日に限って、もっともっととそれを求めてくるのに驚かされはしたが、氷河の胸中には、瞬を軽率だと思う気持ちは全くなかった。

「俺はそんなに優しくしてやっていないと思うのに、おまえは えらく気持ち良さそうにしてくれるんで、抱き甲斐がある。俺以外の奴等にもこうなのかと思うと、おまえが憎くなるが」
探りを入れるつもりはなかったのだが、結果的に氷河の言葉は そういうものになってしまっていた。
氷河の胸に頬を押し当てていた瞬が、その言葉に弾かれたように上体を起こす。
氷河の顔を見おろして、瞬は強い口調で彼に言い切った。
「僕、誰かとこんなことしたの、氷河が初めてだよ!」
「……」

瞬の断言を聞いた氷河は、その言葉を信じたい――というような顔をしていた。つまり、信じ難いと言いたげな顔を。
信じられないだろうと、瞬も思った。
他の誰でもない瞬自身が、自分は以前から氷河の愛撫を知っていたような気がしてならなかったのだ。
氷河のそれに似た、触れられるたび痛みに酷似した熱を感じる愛撫に、以前どこかで触れたことがあるような気がしてならなかった。

「……そのはずだよ。だって、他の人とあんなことするなんて、気持ち悪いもの。自分以外の誰かと こんなに何もかもさらけ出し合うなんて、その人のためになら死んでもいいって思えるくらいの人とじゃないとできない」
氷河を睨みつけるようだった瞬の瞳が、徐々に気弱な色に侵され始める。
最後には、瞬の瞼は全く自信を失ってしまったように伏せられてしまった。

「そう思うのか? 俺のためなら死んでもいいと?」
氷河の腕が、瞬の白い肩に伸びる。
「うん……変だよね」
「いや」
瞬の肩をなぞり、二の腕におりた氷河の腕は、そのまま瞬の身体を引いて再び瞬の頬を暴君の心臓の上に戻した。
しばらく自らの肌で氷河の規則正しい鼓動を確かめているうちに、瞬の心も徐々に落ち着いてくる。
それでも暫時ためらってから、瞬は小さな声で氷河に尋ねた。

「氷河、記憶ないって言ったよね」
「ああ」
「僕もなんだ」
これまで その事実を氷河に告げずにいたことに大した理由はない。
ただ記憶を失った二人の人間が出会い 共に暮らし始めるという出来事が、まるで出来の悪い小説めいていて、氷河に話したところで到底信じてもらえるとは思えなかったからだった。
「小さな子供の頃の記憶はある。あの教会で暮らしていた頃のことは はっきり憶えてるのに」
しかし、今ここに記憶を失った二人の人間が共にいることは現実であり、それは確かな事実だった。

「僕たち、以前、知り合いだったってことはないかな」
「俺はシベリアにいた」
「うん。ありえないよね……」
では この懐かしさは何なのだと、氷河の心臓に耳を押し当て、その腕に指を絡めながら、瞬は思った。
この温もりと感触と、氷河の心臓が鼓動を打つ速さと強さ。
氷河が自分の中にいる時の感覚すら、瞬は知っているような気がしてならなかった。

「でも、そうだったら素敵だと思わない? 僕たちは恋人同士で、心から愛し合ってたんだけど、事故か何かに巻き込まれて、二人とも記憶を失っちゃったの。そして、巡り合って、また恋に落ちたんだ」
「おまえが その方がいいというのなら」
それを子供じみた夢物語と思っているのか、瞬の言葉に対する氷河の返事は曖昧で不可思議なものだった。
だが、それをくだらない たわ言と馬鹿にしたような響きはない。
答える氷河自身も記憶がないのだから、他に答えようもないのだろう。

「……思い出さない方がいいような気がするんだ。思い出したら、今が壊れる。こうして二人でいることができなくなるような気がする。氷河と抱き合ってると、忘れていたことを思い出してしまいそうで、僕、ほんとのこと言うと怖いんだ……」
過去を失った二人が今 存在している場所は なんと頼りなく、そして不安に満ちていることか。
あまりの心許なさに、瞬は小さく肩を震わせた。

そんな瞬に、氷河が低く告げる。
「なら、もう おまえを抱くのはやめる」
「ど……どうして、そんな意地悪言うのっ!」
こんなに心細い気持ちでいる哀れな奴隷に、なぜ氷河はそんなことを言ってしまえるのだろう。
氷河を責める瞬の瞳には、涙がにじんできてしまっていた。

「おまえの泣き顔が可愛くて、そそられるから」
瞬を突き放すようなことを、氷河は本気で言ったわけではないようだった。
今にも泣き出しそうな目をしている瞬の頬に、彼が殊更ゆっくりした動作で手を伸ばしてくる。
「あ……」
そうされるだけで、氷河に触れられた場所に微弱な電流が走るような感覚に襲われ、瞬は、ぞくりと身体を震わせた。
彼の指が意味ありげな緩やかさで他の部分に移動し、そこで動き始めると、瞬はその感覚に唇を噛み耐えるだけで精一杯になる。

「ひょ……がに抱きしめられるのは怖いけど、でも、抱きしめてもらわずにいるのは、もっと怖い……」
既に喘ぎが混じり始めた声で瞬が告げると、
「もう初めてじゃないんだから、怖がることはないだろう」
氷河はわざと話の方向を変えるように、瞬の身体を乱暴に押し開げた。






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