瞬は、氷河を闘いの場に引き戻したくなかった。 アテナの聖闘士だった頃の記憶を失っているのだから、そもそも彼は聖闘士として闘うこと自体ができないだろう。 そして、瞬がアテナの許に戻るということは、今はアテナの聖闘士ではない氷河と共にいることができなくなるということだった。 このまま氷河といたいという気持ちが ないわけではない。 むしろ、氷河という仲間を欠いた状態で、自分はアテナの聖闘士として闘っていくことができるのだろうかという不安の方が大きかった。 記憶を失っている振りを続け、氷河と毎日キスを交わし、抱きしめ合い、二人きりでいることの幸福を このまま守り通すこと。 それも選択肢の一つだと、瞬は無理に考えようとした。 それは決して卑怯なことではないと、必死に自分に言い聞かせようとした。 だが、できなかったのである。 瞬はどうしても――アテナの聖闘士であることを思い出してしまった瞬は、どうしても――アテナの聖闘士ではない氷河と、闘いのない場所で生きていく未来を選び取ることができなかった。 それでも3日、瞬は悩んだのである。 悩み続け、他の答えに至ることのできない自分を認めて、瞬は氷河との別れを決意した。 「氷河、さようなら。僕、行かなきゃならないところがあるんだ」 思い詰めた様子で――実際思い詰めて――、氷河に別れ話を切り出した時、彼がいったいどういう反応を示すのかを、瞬は全く予想できずにいた。 あっさりとこの部屋を出ていくのか、瞬の勝手を責めるのか。 普通の“ヒモ”なら、二人が別れたあとの自分の生活の心配を始めるところなのだろうが、もともと妙に浮世離れしたところのある氷河に、そんな真っ当な反応を期待するのは無理があるだろう――。 瞬にできる予想は、その程度のものだった。 そして、氷河は、瞬のすべての予想を裏切ってくれた。 彼は、瞬が突然告げた別れの言葉に さして驚いた様子もなく、 「アテナのところにか」 と、問い返してきたのだ。 瞬は、一瞬 心臓が止まるかと思った。 「氷河……忘れてたんじゃ――」 「思い出した」 「い……いつ」 「再会して最初におまえを抱いた夜」 「……」 記憶を取り戻していたというのに――取り戻していたからこそ?――瞬の質問に対する氷河の答えは短く端的である。 同時に、彼の返答は瞬を戸惑わせるものだった。 瞬は、命を賭けた闘いを共にしてきた仲間である恋人に出会っても、記憶を取り戻すことができなかったのだ。 思い出せなかった自分に負い目を感じ、顔を伏せた瞬の頬に、氷河がその手で触れてくる。 「俺は時々、おまえが気の毒になる。おまえの中に沈み込んで、そのまま一つに溶けてしまいそうな あの気持ちよさを、おまえは知りようがないんだから」 「え……?」 いったい氷河は何を言い出したのかと訝り、顔をあげた瞬に、氷河は真顔で、 「おまえの中が気持ちよすぎて思い出したんだ」 と言ってのけた。 途端に瞬の頬は真っ赤に染まってしまったのである。 「そ……そんなことで」 しかし、氷河は、ばつの悪そうな表情ひとつ見せず、堂々と彼の事情と見解を瞬の前に披瀝し始めたのだった。 「おまえは地上に住む人間たちの幸福のために闘い、俺は俺の大切な者のために闘う。俺は、おまえと違って、おまえのために闘っていたからな。俺が、失っていた記憶をおまえで取り戻すのは、完全に理に適っている」 いくら理に適っているとしても、できれば こんな重要なことをセックスなどで思い出さないでほしいと、瞬は、今となっては遅きに過ぎた願いを、その胸に抱くことになった。 それはともかく、そうだったのだとしたら、つまり氷河は自分がアテナの聖闘士だったことを思い出していたにも関わらず、アテナのところに行こうとはしなかった――ということになる。 白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士は、アテナが掲げる正義という同じ目的のために闘っていたはずなのに、二人の選んだ道は違っていた――ということになるのだ。 瞬はその事実に気付き、何者かに心臓を鷲掴みされたような痛みを、その胸に覚えた。 「氷河……は、今のままでいたいの? 毎日、それなりに色んなことが起きて、乗り越えなきゃならない障害もあるけど、命懸けで闘うようなことはなくて、倒さなければならない敵もいなくて――。命を懸けるほどの大きな目的もない代わりに、命を失うような危険もない、平凡で平穏な暮らしが氷河の――」 それが、氷河の望みなのだろうか。 だとしたら、やはり二人は一緒にいることはできない。 これでは、何も思い出せずにいる氷河と別れる方がよほど つらくなかったのではないか――と、瞬は思わずにはいられなかった。 瞬の悲嘆に気付いたらしい氷河が、軽く横に首を振る。 「俺は、いつもおまえと一緒にいて、おまえの命を守って、俺とおまえの望みが合致した時には、おまえを抱いて歓を尽くしたい。それができるなら生きる場所はどこでもいい。だが……」 到底アテナの聖闘士の抱く希望とは思えない希望を口にしてから、氷河は彼がアテナの聖闘士であろうとする理由を瞬に告げた。 「だが、おまえが俺の前におまえのすべてさらけ出してもいいと思えるくらい、俺のために死んでもいいと思うくらい、俺を好きになってくれたのは、俺がアテナの聖闘士だからだったと思う。だから、おまえがアテナの許に行くというのなら、俺も共に行く。俺は、おまえに惚れられていたいからな。俺は、おまえの側にいて、おまえの望みを叶える手助けをし、おまえを喜ばせ幸せにしてやりたい」 「氷河……」 それがアテナの聖闘士が闘う理由としては決して褒められるようなものではなかったとしても、自分がアテナの聖闘士であることを氷河が望んでいるのは事実であるらしい。 白鳥座の聖闘士の仲間として、氷河の恋人として、喜んでしまえばいい彼の“理由”を、しかし、瞬は単純に喜んでしまうことができなかった。 「でも、そうしたらまた、敵と命のやりとりをしなきゃならなくなるよ。今のままでいれば、氷河は穏やかに幸せなまま一生を過ごすことができるのに……!」 「幸せ?」 瞬の訴えを、氷河は意外なことと思ったらしい。 彼は瞬を見詰めながら、僅かにその眉根を寄せることをした。 「人間の幸せというものは、本当に欲しいもの、自分の命より大切なもののために生きていることだろう。そして、それは人によって違う。人間の幸福がみな同じだったら、幸福な人間の真似をすれば、人は誰でも幸福になれるはずだからな。だが、実際にはそうじゃない」 氷河の口調は、自らの幸福がどこにあり、それがどういうものであるかを熟知している者のそれだった。 気負いもないが、淀みもない。 「人並みに幸せになりたいとか、誰かのように幸せになりたいとか思っているうちは、人は本当に幸福になることはできないんだ。俺たちには俺たちの幸福がある。だから、おまえはアテナのところに戻り、俺はおまえと共に行く」 「氷河……」 その幸福のある場所が戦場だということは、不幸なことだろうか。 瞬にはそう思ってしまうことはできなかった。 命を懸けられるほどのものを見い出せたのなら、それがその人間にとっての幸福であり、そこがその人間にとっての楽園である。 そして、瞬は、自分の幸福のある場所を知っていた。 「うん」 瞬は頷き――幸福な思いで頷き、彼の幸福を担ってくれる人と、彼のいるべき場所に向かう決意を新たにしたのである。 その決意を為した途端に、瞬は、非常に現実的な問題を思い出すことになった。 「あ、でも、僕、KIKI-HOUSEコーポレーションとの契約がまだ半年残ってるの」 「違約金を要求する相手が失踪するんだ。奴等には何もできない。それに、奴等はおまえが失踪したら、それを逆手にとって、“神秘のセックス”の謎を儲けの種にしてのけるだろう。穏やかで平和な幸福を求める人間は、アテナの聖闘士なんかより余程しぶとくできている。俺たちが奴等のことを心配してやる必要はない」 随分と身勝手な言い分のような気もしたが、瞬はこの場は氷河の意見を 実際、氷河の言う通りのことを彼等はするだろう――彼等の幸福を守るために。 いったい彼等は“神秘の |