その日、氷河が城戸邸に返ってきたのは、いつもよりは少し早い時刻だった。
それでも夕食は外で済ませてきたらしく、彼は帰宅後 仲間たちのいる場所には姿を見せず、自室に直行してしまった。
さすがに星矢たちの目や耳のあるところで“生々しい”話をする気にはなれなかった瞬には、それは好都合なことではあった。
それでも散々悩み、ためらい、必死に自分を鼓舞してから、瞬は決死の覚悟で氷河の部屋に向かったのである。

「氷河……」
氷河は、彼のベッドに腰をおろし、深刻な顔で何やら考え込んでいたようだった。
いったい今 彼の心は何に囚われているのか――以前の瞬は、こんな様子の氷河に出会っても、そんなことを気にするどころか、不安を覚えたこともなかった。
彼の心の中にあるのは自分だけだと勝手に信じ うぬぼれていた以前の自分自身に、瞬は初めて気付いた。

「あの……話があるんだけど」
「なんだ」
「あの……あのね」
あの学生から知らされた生々しい話を、いったい どう切り出したものか――。
ベッドに腰をおろしている氷河の前に立ち、瞬は戸惑い躊躇した。
途端に氷河の手が瞬の腕を掴み、瞬の身体を彼の胸の中に抱きすくめる。

「氷河っ」
氷河の態度がひどく不真面目で卑怯なものに思え、瞬は彼の胸の中で彼を非難した。
「違うのか」
氷河が意外そうな声と目をして、瞬を抱きしめていた腕から僅かに力を抜く。
彼自身は情熱や欲望にかられて そうしたわけではなかったらしく、瞬を解放しようとする彼の所作には未練めいたものは全く感じられなかった。
ほとんど力が込められることなく自分の身体に触れている氷河の手に、瞬は背筋が凍りつくような冷たささえ感じてしまったのである。

「おまえは絶対に自分からは俺を欲しいとは言わないからな。おまえがそんなふうに何も言わずに俺の前に立つ時は大抵、俺にそれを察しろと命じているんだ」
「命じてなんて……」

瞬がこれまで氷河にはっきりと言葉でそれを求めたことがなかったのは、そんな言葉を口にするのが恥ずかしかったからである。
氷河にあつかましいと思われたくなかったからだった。
少なくとも瞬は、たった今まではそう思っていた。
だが、それは ごく上層の意識にすぎず、心の奥底では、言葉にしなくても氷河は察してくれるはずだという、うぬぼれに似た狡猾が働いていたのかもしれない。
瞬は、そんな自分に今更ながらに気付き、唇を噛みしめた。

同時に瞬は、僅かに心を安んじることができたのである。
自分は氷河に『触れたくもない』と思われるほどには嫌われてはいないのだと、『“命じ”られれば触れてやってもいい』と思う程度には、氷河はまだ自分に好意を持ってくれているのだ――と。

「違うのなら、何の用だ」
尋ねながら、氷河が瞬の背にまわしていた腕を解こうとする。
瞬は氷河の素っ気なさに狼狽し、ほとんど反射的に彼の胸にしがみついていった。
「ち……違わない……! 違わない!」

自分には氷河を責める権利はない。
彼に誓いを求める権利もない。
二人の間には、たった一つの約束もない。
今 瞬が確かに信じられるただ一つのものは、自分が氷河を好きでいるという、その気持ちだけだった。






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