「で、おまえは、俺が他の女と付き合っているのを どう思ってるんだ?」
氷河の腕は、瞬の肩を抱きしめている。
こんなことのすぐあとで、血肉のほとんどを彼に食い荒らされ 生きているのが不思議なほど弱っている彼の獲物に、氷河はなぜ そんなことを訊くことができるのだろう――?
そう思った瞬間に、瞬はやっと涙の流し方を思い出すことができた。

「僕には……何を言う権利もないでしょう」
氷河のために努めて気丈に、できるだけ落ち着いた声で答えたつもりだったのだが、瞬の声はほとんど涙でできていた。
「……」
氷河は瞬の答えを聞いても無言だった。
予想通りの返事だったのだろう。
あるいは、それは氷河にとって全く期待はずれの答えだったのかもしれない。

瞬の身体に絡めていた腕を解いて、彼はベッドの上に上体を起こした。
瞬を見ずにすむのなら視界に映るものは何でもいいといった様子で、氷河が虚空に向かって告げる。
「俺は、もしおまえが俺以外の誰かと寝るようなことがあったら、それが男でも女でも 必ずそいつを殺すが」
「氷河……?」

身体が痛くて――特にその中心が鉛の塊りを押し込められたように痛くて――瞬は、身体を起こすことができなかった。
顔を背けている氷河の表情を確かめることができない。
もしかしたら、彼が幾度も瞬の身体を抉り続けていたのは、瞬をそういう状態にするためだったのかもしれない。
氷河は、瞬を見ずに勝手に彼の言葉を続けていく。

「人一倍 潔癖なおまえがそんなことをするはずがないとわかっているのに、そういうことを考えてでもいないと、俺は外面の冷静さも保っていられない……」
身体の痛みに比べれば思考力は明瞭な状態でいると思うのに、瞬には、氷河が話す言葉の意味を全く理解することができなかった。

「わかっているのに、どうして俺はおまえが目を向ける人間全部に嫉妬せずにはいられないのか――」
「世の中の人間が全部アテナに敵対してくれたら、俺は心置きなく、邪魔な人間共を全部殺せるのに……と思っていた。そんな考えは 俺の自信のなさから生じることで、自分をどうにかしなければ消せない妬心だということはわかっていても、他人を排斥することの方が楽だから、俺はそう考えてしまうんだ」
「おまえは人に何かを頼まれたら嫌とはいえない。おまえは困っている奴を助けたいだけで、それ以上の意図はない。親切の報いを期待しているわけでもない。自分の妬心を忘れるために、おまえに嫉妬させようなんて姑息なことを画策する俺の方がおかしい。間違っている」

「氷河……」
少しずつ、氷河の言わんとしていることがわかってくる。
否、今の瞬に確実にわかっていることは、“氷河”が“瞬”を嫌ってはおらず、むしろ誰よりも欲してくれているということだけだった。
そして、もしかしたら、氷河が女子大生たちと出歩いていたのは、彼が彼の恋人に、自分の妬心を知らしめるための画策だった――のかもしれないということ。
氷河が、自らの妬心を抑えるために他人を道具のように使う自分を卑劣だと思い、軽蔑していること――だけだった。

「俺はおまえが好きだし、俺が惚れて当然のものをおまえは持っている。おまえは綺麗で可愛い。素直で親切だ。花を愛でるように、おまえを愛せたらいいと思う。なのに、どうして俺はこんなに 穏やかでいられないんだろう――」
「おまえを誰かに取られるくらいなら、相手を殺し、おまえ自身も この世界から消し去ってしまいたいと思うほどに――俺一人のものでいてくれないのなら、いっそ死んでしまえばいいと思うほどに――」
「おまえにはそんな愛し方をしては駄目なんだということはわかっている。わかっているのに止められない。俺はきっと破滅型の人間なんだ。身近で死を見すぎたせいで、どんなことも 死でしか決着をつけられないんだと考えてしまう。俺は自分のことしか考えられず、おまえに優しくしてやる術も知らない。俺は多分、人間としての感覚が どこか麻痺しているんだ」

「氷河……」
氷河のために何か言わなければ――言ってやらなければ――と、瞬は思ったのである。
同性同士で、アテナの聖闘士同士で、そのことさえなければ、自分たちは普通に恋し合っている二人の人間だと疑いもなく信じていた自らの楽観を、瞬は悔いていた。
そして瞬は、氷河は過去の闘いと死から立ち直ることができているのだと思い込んでいた自らの迂闊を、憎まずにはいられなかったのである。
同時に、破滅に向かおうとする氷河の考え方をも。
瞬は、力を振り絞った。

「氷河……氷河は優しいよ。氷河は生きている。本当に破滅を求める人間は、何にも、どんなことにも苦しまない。氷河はそんなんじゃない。どうしてそんなことを言うの」
「俺が優しかったことはない。まともに生きていたこともない。そう見えていたのなら、俺はそんな自分を演じていただけだ。おまえに愛されたくて――生きている振りをしていたんだ」
「氷河――」

氷河がなぜそんな考えを抱くに至ったのかが、瞬にはやはりわからなかった。
彼の恋人の優柔不断と楽観が 彼の気持ちを苛立たせたのだとしても、彼は希望というものの価値を誰より知っているアテナの聖闘士ではないか。
同時に、瞬は、彼がそんな考えを抱くに至った理由が、わかりすぎるほどにわかった。
失われた人たちを、彼はそれほどに愛していたのだ。
そして、死んでしまった人たちは永遠に自分一人のものでいてくれることを、彼は知っていた――。

それは、ひどく幼い考え方である。
愛する者の死に立ち合うのは、氷河ひとりだけのことではない。
それは誰もが経験かることである。
氷河はまるで幼い子供のように、自分の愛する者が失われてしまったことに いつまでも囚われ続け、生きている人間が死んだ者たちのように自分だけのものでいてくれないことに傷付いている。
氷河の心は矛盾し、その行動は支離滅裂だった。

だが、なぜなのだろう。
瞬は、そんな氷河が愛しくてたまらなかったのである。
彼がどんなに卑劣なことをしても、どんなに生きている者たちを傷付けても、それが氷河のすることならば すべてを許してやりたい。
実際、自分は許してしまうのだろう――どんなに彼に傷付けられても、自分はきっと氷河を許してしまうのだ――と、瞬は思った。

瞬は、そんな自分が――自分がそれほどに氷河を好きでいるということが、悲しく苦しくてならなかった。






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