氷河はもしかしたら、自分が何をしたのか、それがどういう結果を招いたのかに、全く気付いていないのかもしれない――と、瞬は思ったのである。
氷河が付き合っていた女性の一人が本当に彼の子供を身籠り、氷河もそれを知っていたとしたら、いくら氷河が自分の恋しか見えていない男でも、昨夜のようなことを一途に語れるはずがない。

だから瞬は氷河のために――恐ろしくて到底そんなことはできないと思っていたことに挑む決意をしたのだった。
問題の女性に会い、事の真偽を確かめ、もしそれが事実なのであれば、彼女の意向と今後のことを話し合う――。
いったいそれがどんな決着を見るのか、皆目見当がつかず、どんな事態が起こるのかをあれこれ想像するほどに楽観的な気持ちにはなれなかったが、瞬は氷河のためにそれをしなければならなかった。
意を決して例の学生に電話をかけた瞬は、しかし、今日もまた、逆に彼に外出を乞われることになってしまったのである。

彼に指定された場所は、昨日の喫茶店とは打って変わって、都心にあるシティホテルの最上階。某有名フランス料理店がスイーツ専門で出しているティーラウンジだった。
彼の名で予約が入れてあり、その名を告げると、瞬はフロアの奥まったところにある個室に通された。
ウエイターというよりはギャルソンと呼ぶのがふさわしい容貌の男性に案内され、その部屋に一歩を踏み入れた途端に、
「ごめんっ。鈍くてすみませんでした!」
という声が、瞬の上に降ってくる。
瞬はぎょっとして、その場に立ち尽くした。
そして、その場にいるのが、自分に向かって頭を下げている彼一人だけでないことに気付く。
5人掛けにセッティングされたテーブルには、彼の他に3人の女性が腕を組んで座っていた。

化粧のうまい、いかにも自分が女性であることに誇りを持っているような様子をした3人の女性たち。
彼女たちは、ドアの前に困惑したように立ち尽くす瞬を見、それが瞬だと気付くと、揃って目をみはり、そして言った。
「こういうのが氷河の好みなわけ。私たちが相手にされないのも当然のことだわ。――タナカクン!」
彼女たちに視線で何やら命じられたタナカクンは、椅子に腰をおろすことも許されず、再度 瞬に向かって米搗きバッタのように幾度も頭をさげてきた。

「いや、その、だから、僕は、同じ家に住んでるんだから、彼は君の家族か親戚なんだと思っていたんだ。でも、肉親にしては、あんまりタイプが違うし、昨日 妊娠のことを話したら、瞬ちゃん、真っ青になって帰っちまっただろ。で、もしかしたらって思って、女史たちに相談したら――」
彼は彼女たちにただ一言、「馬鹿」と言われたのだそうだった。

「タナカクン、なにぼけっとしているの。呼ぶまで店の者は誰も来ないようにと言ってあるのよ。椅子を引いてあげなさい。彼女が座れずにいるじゃないの。ほんとに気がきかないわね!」
「遅鈍なホストで ごめんなさいね。私たち、彼のドジの尻拭いをするために、わざわざ出向いてきたの」
「今日の払いは全部、このドジなタナカクンだから、余計なことに気をまわす必要はないわよ。本当はディナーにご招待したかったんだけど、タナカクンにこの歳で消費者金融の恐いおじさんと付き合わせるようなこともできないから」

「あの……」
引かれた椅子に戸惑いながら瞬が腰をおろすと、中央にいるセミロングの女性が早速用件に入ってきた。
「お茶の前に まず、私が妊娠したというのは事実じゃないってことを、最初に言っておくわね。それはタナカクンの早とちり。だから安心して」
「え……」
今の瞬の最大の懸案事項が、突然消失する。
それがあまりに突然のことだったので、瞬はその事実に気を安んじることさえ思いつかなかった。

「あなたの彼氏、目付きが悪いでしょ。なのに、やたらとセクシーで。女を目で妊娠させる男が本当にいるとしたら、彼みたいな人のことを言うんだろうなーって、私たち、冗談を言い合ってたの。で、私は、『彼に見られたから妊娠しちゃったかもしれないわ』って騒いでいただけ。それをこのタナカクンが勘違いしてくれたのよ」
「そんなふうに粗忽で軽率で早とちりだから、タナカクンはテストや面接でドジってばかりなのよ。ほんとはさほど馬鹿でもないのに」
やっと席に着くことを許されたタナカクンは、3人の女性たちに言いたいことを言われても、ひたすら借りてきた猫のように背中を丸めているだけである。
彼は本当に彼女たちに頭があがらないらしかった。

「瞬ちゃんって言ったっけ? 安心した?」
「安心したところでお茶を運ばせましょう」
呆然としている瞬の返事を待たずに、右端の女性がタナカクンに顎をしゃくって指示を出す。
タナカクンは、古いギャグマンガの登場人物のような動作で掛けたばかりの椅子から立ち上がり、店の者を呼ぶために部屋を飛び出ていった。






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