「入れ替わった〜っ !? 」
沙織は、自分の気まぐれが引き起こした事態に大いに慌て、二人に城戸邸を出るなと厳命して、グラード・エンターティンメント社に飛んでいったらしい。

白鳥氏の姿をした氷河の話によると、なんでも同じ刺激を与えられた二人の人間が いかに異なる脳波形を描くのかを検査している最中に、病院の近くの高木に大きな落雷があったということだった。
それが病院に電気を供給している電線を切断してしまった。
無論すぐに予備電源が作動したのだが、その僅かな一瞬に、この奇天烈な事態が生じることになった――らしい。

図太いはずの人物の脳波が大いに乱れ、心臓も異様な速さで鼓動を打っているというのに、小心な人物の脳波はリラックスしきっている。
訝った医師たちは現況を把握すると慌てて様々な処置を試してみたのだが、一度入れ替わってしまった二人の精神は結局元には戻らなかったのだそうだった。


「マンガみたいな展開だな」
普段からマンガに慣れ親しんでいる星矢は、二人の人間が人格転移に至った経緯を聞かされても、あまり驚くことはしなかった。
彼はむしろ、この事態を楽しんでいる素振りさえ見せ始めたのである。
「声って、心じゃなく身体が作るもんなんだからさ、これでめでたく沙織さんの望み通り、日本一のテノールと日本一の図太さが合一することになったわけだ。そっちのにーちゃんのあがり症も これで消えて、舞台に立てるオペラ歌手の一丁あがり。ほんと、よかったじゃん」

そう言って星矢が親指で指し示した『そっちのにーちゃん』は氷河の姿をしている。
白鳥氏の姿をした氷河は、即座に星矢の楽観を否定した。
「阿呆。俺はオペラの歌詞を知らん」
「駄目かー……」
精神が入れ替わっただけでは駄目なことを、それでも星矢は薄々気付いていたらしい。
彼は、やはりあまり深刻なふうにではなく、両の肩をすくめた。
要するに、星矢には、これは他人事――しかも、かなり愉快な他人事――なのだ。

だが、当人は全く愉快ではない。
当人には、これは非常に深刻な事態だった。
「こんな奴の舞台なんかどうだっていい。それより俺はどうなるんだっ! こんな動きの鈍い身体、1時間も付き合えば十分だ!」
沙織に毒づけなかった分、氷河は気が立っているらしい。
精神が入れ替わっただけでは白鳥氏が舞台に立てないように、氷河もまた聖闘士として闘うことができないのであるから、彼の仲間たちは彼の苛立ちも当然のことと理解した。

「だが、まあ、幸い、大物の神たちはあらかた片付いて、最近はほとんど敵襲もないことだし」
紫龍が、かなり無理のある笑顔を仲間のために作る。
彼は彼なりに白鳥座の聖闘士の苛立ちを静め、その不安を少しでも取り除いてやろうとして、氷河にそう告げたのだったが、氷河は自分が聖闘士でいられなくなったことなど、全く気に病んでいなかったらしい。
彼にとっての最重要問題は、つまり、
「バトルなんかクソ食らえだ! 俺と瞬はどうなるのかと言ってるんだ! 特に夜!」
ということだったのである。

「おまえ、即物的すぎ」
正直に過ぎる氷河の言い草に、星矢が呆れた顔になる。
そういうことを、氷河の顔をした男に言われることには、星矢とて慣れていた。
が、今、彼の目の前で下世話な憂いを憂えて いきりたっている男は、氷河の顔をしていない。
その身に宿る精神のせいで目付きだけはやたらに鋭いが、“彼”は、こんな馬鹿げたことを自信満々で怒鳴り散らすには、あまりにも凡百な顔をした人物だった。
星矢は、どちらかといえば控えめな容姿で阿呆極まりないことをわめきたてている氷河に、奇妙な混乱を覚え始めていた。
肝心の瞬は、いったい この事態をどう思っているのかと考えて、ちらりと瞬の顔を窺う。

瞬は、氷河の性格をした男と氷河の顔をした男のどちらにも近付こうとせず、彼等が腰をおろしているソファから最も離れたところにある椅子に力なく座り込み、ひたすら身体を縮こまらせていた。
「どうなると言って――。瞬がおまえの顔や身体が好きだったのなら白鳥氏の方に行くだろうし、おまえの性格が好きだったなら、おまえの方に行くだろう」
「氷河の性格って、人に好かれる要素が全然ないじゃん。我儘で無愛想で、その上、マザコン」
紫龍が告げた実に妥当な意見に、星矢が更に妥当な突っ込みを入れる。
氷河もその事実は自覚しているらしく、白鳥氏の姿をした人物は、仲間たちの極めて理に適った発言に言葉を詰まらせた。

「瞬、どっちを選ぶ?」
そんな氷河を無視して、紫龍が瞬に究極の二択問題を突きつける。
「あの、僕……」
突然 人生の岐路に立たされることになってしまった瞬は、困ったように二人の氷河を見やり、それから再び顔を伏せた。
そして、膝の上で、落ち着かない様子で両手の指を絡めたり解いたりし始める。

「瞬……」
瞬の決然としない態度に、氷河はまず焦れったさを覚えた。
次に、安堵感が彼の胸中に生まれる。
実は、氷河は、自分の容姿には相当の自信を持っていたのだが、自分が それ以外のことではほとんど美点らしい美点を持っていない人間であることにもまた、絶大な自信を持っていたのだ。
態度だけはいつも偉そうな金髪碧眼の聖闘士が、完全に傲岸な男にならずに済んでいたのは、彼が彼自身を客観的な目で見詰めることができる男だったから、だった。
だからこそ氷河は、瞬が即座に氷河の肉体を選ばないことに、安堵感のようなものを覚えることにもなったのである。






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