瞬は、どうやらすぐには答えを出すことができないらしい。
紫龍は瞬に即答を急かすことはしなかった。
なにしろ、二人が永遠に元の二人に戻れなかったとしたら、これは瞬の一生に関わる決定ということになるのである。
瞬には、熟考する時間が必要なはずだった。
代わりに氷河の姿をした白鳥氏の方に向き直る。
「こういうことは、白鳥さんの意見も聞かないとな」

そして、これは白鳥氏にとっても一生の問題なのだ。
「あー。こっちにいるのが瞬といいまして、氷河の、まあ、ご昵懇じっこんの間柄というか何というか、つまりそういう相手なんですが、どうですか? 好みのタイプですか?」
「え……え……っ !? いや、ものすごい美少女だとは思いますが、僕には勿体無い――」

日本一有名なオペラ歌手は、どうやら あまり自信家ではないらしい。
自分の声がやたらと攻撃的な言葉を形作る様に、先ほどから呆然としていたらしい白鳥氏は、突然自分に話を振られたことに困惑したような表情を浮かべた。
どうやら彼は、この事態に際して、自分に何らかの決定権があるとは考えてもいなかったようだった。

瞬を少女だと勘違いしている白鳥氏の誤りを指摘しようともせず、紫龍が彼ににこやかな笑みを向ける。
「ご謙遜なさらず、あなたも外見だけは相当のものです」
「あ……あ、そうか。今の僕なら、彼女と一緒にいても見劣りしませんね!」
氷河より はるかに自信家でいていいはずの日本一有名なオペラ歌手に 全く驕ったところがないのは、ひとえに彼がオペラ歌手としては出来損ないの我が身を自覚し、実際以上に自分を卑小な存在だと思っているからなのだろう。
白鳥氏は生まれて初めて自分の美点を賛美された子供のように嬉しそうな表情を浮かべ、自分の――氷河の――顔に両手でぺたぺたと触り始めた。
そして、
「俺の顔に触るなっ!」
氷河に怒鳴りつけられて、弾かれたようにその手を下に落とす。

担任教師に叱られてしょんぼりしている小学生のような目をした“氷河”の顔に 物珍しさと同情を覚えつつ、紫龍は二人の氷河の間に割って入った。
「瞬、どうだ。こちらの氷河さんは、本物と違って傲慢の悪徳も備えていないようだし、なかなか好人物のようだぞ。少々、小心の気味はあるようだが」
「あの……僕……僕は……」
紫龍の推薦の辞を受けた瞬は、彼の右手にいる氷河を見、左手にいる氷河を見、それから小さな溜め息と共に、再び顔を伏せてしまった。

「瞬っ、なぜ俺の側にこないんだっ」
いつまで経っても 彼にとっての“氷河”がどちらなのかを決めてくれない瞬に焦れた氷河が、それ以上の忍耐が続かなくなったのか、ラウンジに怒声を響かせる。
しかし、瞬には瞬の都合と気持ちというものがあったのだ。
「だ……だって、氷河ってば、氷河の顔してないんだものっ。氷河といたら、僕、他の人と浮気してるような気分になる……!」
「おまえは面食いじゃないはずだろう! 何かと手がかかるから俺を好きだと、いつも言っていたのは嘘だったのかっ」

氷河に責められた瞬が、ますます その身体を小さくする。
瞬自身、自分は決して氷河の姿形を好きなわけではないと思っていたからこそ、今こうして 自分の“氷河”を決めあぐねている自分自身に戸惑い、悩んでいたのだ。

このままでは小人になってしまいそうなほど心身を萎縮させてしまっている瞬を見兼ねた星矢が、自慢の顔を失ったというのに相変わらず偉そうな態度を崩さない氷河に、素朴な疑問を投げかける。
「でもさ、瞬がおまえの中身の方を選んだとしてさ、おまえは他人の身体で瞬と寝るつもりなのか?」
「なに?」

素朴な疑問というものは、大抵の場合、根本的かつ本質的な疑問である。
星矢の素朴な疑問に、氷河は、日本一有名なオペラ歌手の顔を、遠慮会釈なく引きつらせた。
「いや、俺は大事なのは心だと思うんだけどさー」
星矢がまた、実に素朴な呟きを呟く。
しかし、彼の呟きは、既に氷河の耳には聞こえていなかった。
「俺のものじゃないものが、しゅ……瞬の中に――」
「やだっ」

氷河が言葉にした事態が嫌なのか、そんなことを人前で言われることが嫌なのか、瞬の真意は余人には測りかねたが、それまで言を左右にして決断を避けていた瞬が、その件に関してだけはきっぱりと拒絶の意思を表明する。
「ぼ……僕、氷河が元に戻るまで、どっちの氷河ともお友だちのままでいますっ」
決然とした態度で そう言い切り、瞬は、二人の氷河の前から逃げるようにラウンジを飛び出ていった。

呆然としている氷河を気の毒そうに見やり、星矢が右手でがりがりと自分の髪を掻き乱す。
「やっぱ、心だけじゃ駄目かー」
「これで、身体と心は不可分のものであるということが、図らずも証明されたわけだ。しかし、現実には、氷河の心と身体は分離している。つまり、心身二元論は、人間の認識と現実という二方向からの考察が為されなければならないということになるな」
興味深げな顔をして独りごちる紫龍に、当事者の顔をした第三者は、ひたすら心許なげな視線を向けていた。






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