氷河が悪いのではないとわかっていても、瞬はいたたまれなかった。 他人の顔をした氷河の側に、もはや自分の居場所はなくなったような気持ちにすらなって、瞬は城戸邸を飛び出した。 庭に出たところで、だが、今の自分には他に行く場所が一つもないことに気付く。 「もう……どうしてこんなことになっちゃったの……」 幼い頃、仲間たちと屈託なく走り回っていた庭は、今は灰色の冬の衣装をまとっている。 緑の葉を捨て去った樹木は寒そうに並び、そこにたゆたっている陽光は、瞬を力づける力強さを持っていない。 瞬は、為す術もなくぼんやりと、庭の一本の高木の幹に背中を預けた。 「す……すみません、本当に。僕のために色々とご迷惑をかけて」 そこに、瞬には聞き慣れた声が、遠慮がちに降ってくる。 その顔に似つかわしくなく気弱げな青い瞳が、瞬を、申し訳なさそうに見詰めていた。 「あ、いえ、白鳥さんのせいじゃありませんよ」 瞬は慌てて、彼のために笑顔を作った。 氷河が悪くないというのなら、白鳥氏にはますますもって罪がないのだ。 白鳥氏は、あまり弁の立つ 黙りこくって瞬の前に立つ日本一のオペラ歌手への同情心を、瞬は思いだした。 この事態がつらいのは、自分よりも、本来の身体を他人に奪われてしまった氷河と白鳥氏の方なのだということを。 「白鳥さんは、ご自分がどうしてあがり症になったのか、お心当たりはないんですか?」 「え……あ……あの……」 瞬に問われて、どぎまぎしたように、白鳥氏が幾度も瞬きをする。 やがて彼は、思い切ったように口を開いた。 「あの、瞬さんがすごく綺麗で可愛いので思い出したんですが、僕、小学生の時にすごく好きな子がいたんです。確か、3年生の秋の文化祭で、僕は選ばれて独唱をすることになって――。僕は彼女にいいとこを見せようと張り切ってステージに立った。ステージの上から、僕はもちろん、いちばん最初に彼女がどこにいるのかを捜したんです。ステージには僕一人しか立っていなかったから、当然彼女は僕をじっと見詰めていた。僕は目立たない子供だったから、そんなのは初めてのことで――途端に僕は頭に血がのぼって、心臓がどきどきし始めて、伴奏は聞こえなくなるし、声も出せなくなるし、結局ステージの上でがたがた震えて立ちんぼです」 「それは……」 「僕の取りえは歌だけだった。なのに、僕は歌えなかった。それがひどくショックで、多分僕は自分で自分の記憶を封印してしまったんです。周囲の大人たちはもちろん、クラスメイトたちも、そのことについては僕の前で話題にしないよう先生方に忠告されたらしくて、僕は自分の失態を思いだすことなく今まで来た。でも、僕は本当はそのことを一瞬だって忘れたことはなかったんだ。いや、乗り越えるための努力をすることなく忘れてしまったから、大勢の人の前で歌うことに無意識に恐怖を覚えるようになった。僕は弱くて卑怯な子供のまま、今日まできてしまったんです」 10歳にもなっていない子供の心に、その出来事は大きな傷を残したのだろう。 彼がその出来事を忘れようとしたとしても、それは幼い子供なりの生きていくための知恵だったに違いない。 瞬は、彼を心弱いと責める気にはなれなかった。 「でも、今は、もう一度そのことを忘れようとはせずに乗り越えようと考えていらっしゃるんでしょう?」 「もちろんです!」 白鳥氏が白鳥氏らしくなく――まるで氷河のように――きっぱりと断言する。 瞬は、そんな彼を非常に好ましく思った。 「僕、その人に似てるんですか? 白鳥さんの好きだった人に?」 「似てるっていうか、本当のことを言うと、僕は、彼女が全校生徒の中で群を抜いて綺麗で可愛かったことしか憶えてないんです。だから似てるように感じるっていうか、あ……いや、その……」 彼は、女性にお世辞を言った経験もなかったのだろう。 自分の言葉がそういうものになってしまっていることに気付いたのか、白鳥氏は(氷河の顔で)真っ赤になった。 自分より年上の彼が、瞬の目にひどく可愛らしく映る。 今 自分の目の前にいる人物が 自分の大好きな人の顔をしていることに今更ながらに思い至り、瞬は彼に不思議な親近感を覚えた。 「じゃ、白鳥さん、僕に慣れる練習をしましょう。ここには、音響はともかく防音は完璧な部屋がいくつもあるから、スタジオ代わりに使えますよ。僕に白鳥さんの歌を聞かせてください」 親しげな瞬の様子と その提案に、白鳥氏はまたしても子供のようにどぎまぎと戸惑う素振りを見せた。 が、彼はまもなく現在自分が置かれている状況を思いだしたらしく、力なく首を横に振ることになったのである。 「この身体は確かに鍛えてあって、練習前の準備運動もいらないほど見事なものです。声質も悪くないし、少し練習すれば、それなりの歌手にはなれるだろうとは思う。ですが、これは、歌を歌うための鍛え方がされた身体ではないですし、声帯も常人並み。僕は僕の声を作るために20年を費やした。この身体で僕の歌を歌うことは不可能です」 「そっか……残念……」 氷河の声で『ローエングリン』の白鳥の騎士や『ニーベルングの指輪』の英雄ジークフリートのアリアを聞けるかもしれないという瞬の期待は、あえなく潰えてしまった。 少々落胆はしたのだが、瞬はすぐに気を取り直したのである。 白鳥氏の側になら、自分の居場所がある。――そう思って。 「でも、僕といつも一緒にいたら免疫がついて、白鳥さんのあがり症も治るかもしれないですよね。これから僕たち、なるべく一緒にいるようにしませんか」 にっこり微笑む瞬にそう言われた白鳥氏が、瞬の前で全身を硬直させる。 彼は、壊れた人形のように、こくこくこくと幾度も瞬に頷いた。 「やっぱ、顔の勝負だったかー」 瞬を追いかけて出てきた城戸邸の庭で、思わぬ光景を目にすることになった星矢が、いたく納得した顔で正直な感懐を口にする。 星矢と共に庭に出てきた氷河は、庭に立つ二人の姿が妙に似合って見えることに、いかんともし難い理不尽を覚えて、音がするほどきつく奥歯を噛みしめた。 |