「瞬っ、おまえはっ!」 人間に最も大きな自信を抱かせるものは、優れた容姿でもなければ、100万枚のCDを売り切るほどの美声でもない。 自分が誰かにとって必要な存在である事実を確信できること、ただ その一事である。 自分の居場所を発見した瞬は、だから、一度は飛び出した城戸邸内に再び戻ることができた。 その瞬を、氷河が頭から怒鳴りつける。 自信を回復したばかりの瞬は、もちろんそんなことにはまるで動じなかった。 「白鳥さんて、氷河に似てて可愛い」 むしろ、瞬は、弾んだ声で、氷河に彼以外の男の話題を振ることさえしてのけたのである。 「似てるのは当然だっ! 奴は俺の顔を盗んだ泥棒だぞっ」 「そうじゃなくて……。氷河が初めて僕に好きって言ってくれた時があんな感じだった。氷河、憶えてる? 僕たちがまだ小さかった頃、城戸邸の庭で――」 「あの男がおまえを好きだと言ったのかーっっ !! 」 自分の姿をした自分ではない男と瞬が、互いを見詰め 寄り添い立つ様が、まるで一幅の絵のように美しく見えた――。 以前の氷河なら、その事実に悦に入ることはあっても、傷付くことはなかっただろう。 だが、今、氷河はその事実にいたく傷付いていた。 傷付いていることを認めたくないがために、声が大きく攻撃的になる。 瞬は、氷河の傷心に気付いた様子もなく、おもむろに顔をしかめただけだった。 「氷河。今の氷河は以前の氷河とは声量が違うんだから、少し抑えてくれない? 僕、鼓膜が破れそう」 「……」 八方塞がりとはこのことである。 氷河が取り戻したいのは、持って生まれた生来の顔ではなく、10数年間鍛え続けてきたその身体でもなく、瞬の心だった。 自分の肉体を取り戻すことより簡単なことのはずなのに、どうすればそれが再び自分のものになるのかが わからない。 己れの無力に歯噛みすることしかできない自分自身に、氷河は途方に暮れかけていた。 そこに突然、 「敵襲だーっ !! 」 裏庭の方から、到底美声とは言い難い辰巳徳丸氏の胴間声が響いてきたのである。 瞬が、春に咲く花のように邪気のない印象の面差しを、一瞬で、鍛え抜かれた刀剣のそれに変える。 そして、瞬は、氷河に無情な言葉を吐いた。 「氷河はここにいてっ! 腹筋だけ鍛えてあっても、聖衣は着れないでしょ!」 「瞬っ!」 あまりにも残酷な瞬のその言葉に、氷河はほとんど悲鳴に似た抗議の声をあげたのである。 恋人として、瞬の心を失うだけでも耐え難いことだというのに、“氷河”の肉体を持たない男は、仲間として瞬の横に立つ権利までをも奪われてしまうというのだろうか。 愛するブリュンヒルデの裏切りによって命を落とした英雄ジークフリートも、妻となったエルザの疑いの心によって別れを余儀なくされたローエングリンも、ここまでみじめな気持ちにはならなかったろうと思う。 しかし、現実に、今の氷河には――聖衣をその身にまとうこともできない今の氷河には――瞬の指示に従うこと以外、できることはなかったのである。 瞬と瞬の仲間たちが聖衣を身につけて、敵が現われたらしい裏庭に向かって駆けていく。 氷河は、じりじりと我が身を熱く焦がす焦慮と、体内を流れる血を冷たく変えていく寂寥感という、相反する性質を持った二つの感情に苛まれていた。 アテナの聖闘士であることを心から望んだことなど、これまで一度もなかったつもりなのに、瞬と共に敵の前に立つことのできない自分がたまらなくみじめでならない。 彼等の闘いを見ていなければと思うそばから、自分が彼等の戦場にいて何になるのだという考えが生まれてくる。 今の瞬たちなら大抵の敵は苦もなく倒すことができることはわかっていた。 仲間の一人が闘いに加われなくなったことなど、神の血を受けた最強の聖衣に守られている彼等には、大した亡失ではないのだ。 ――と、氷河が自暴自棄に考え始めた時。 「うわああぁ〜っ !! 」 もはや苦戦などしたくてもできないだろうと思っていた星矢の叫喚が、ラウンジでつくねんとしていた氷河の耳に届けられた。 さすがにそれ以上 この敵襲に無関心を装い続けることのできなかった氷河が裏庭にまわると、そこには、あろうことか冥界での闘いで倒されたはずの冥界三巨頭が、生きていた時そのままの姿で打ち揃っていたのである。 アテナの結界もないが、ハーデスの結界もないこの場所で、彼等は異様に強かった。 拳を交えずとも、今の彼等が、冥界で闘った時より はるかに強い力を その身に備えていることが、氷河にはわかった。 「瞬……!」 星矢や紫龍は まだかろうじて自らの足で立つことができていたが、瞬は既に三巨頭の足許に倒れ伏していた。 ハーデスの依り代だった瞬への憎悪のためなのか、三巨頭の戦意は瞬一人に集中していた。 彼等の視線は、まだ闘うことができる状態の星矢たちでなく、もはや立ち上がることさえ困難になっているらしい瞬にだけ向けられている。 いったいなぜこんなことがと思うより早く、氷河は瞬と敵の間に飛び込んでいってしまっていた。 「氷河っ、やめろ! 今のおまえじゃ無理だっ!」 「こいつらは、冥界にいた時より力を増しているぞ!」 星矢たちが、氷河の無謀を怒号めいた声でいさめる。 仲間の声で氷河がそこにいることに気付いたらしい瞬が、苦しそうにその顔をあげた。 「氷河、だめ……っ! 今の氷河はアテナの聖闘士じゃないの! 早く逃げてっ」 「うるさいっ。俺は俺だ!」 瞬が――仲間が決死の覚悟で闘い傷付いているというのに、聖衣をまとえないなどという詰まらない理由で、仲間の苦戦をのんびり傍観していられるわけがない。 自分の身体が本来の自分の身体でないことなど、今の氷河には意味のない事実だった。 心は、瞬を守り救いたいと、身体を引き裂かんばかりに強く叫んでいる。 「よくも瞬に!」 ひどく重く感じられる他人の身体で、氷河は自らの小宇宙を燃やそうと試みた。 意識したわけではなかったが、瞬を傷付ける敵を前にした氷河の心は、勝手にそう動いた。 無謀であり、不可能なことなのかもしれないことはわかっている。 しかし、小宇宙は肉体が作るものではないはずだった。 そして、誰もがその身の内に備えているもののはずだった。 氷河は、それこそ死を覚悟して、その不可能に挑もうとしたのである。 臆病なオペラ歌手の中にも、小宇宙のかけらはあった。 その存在に気付き、“氷河”の心でそれを大きくしようとする。 腹筋ばかりが聖闘士並みに鍛えられているオペラ歌手の身体が、その強引な意思の力に耐え切れず悲鳴をあげるのがわかったが、氷河はもはや自身の心を抑制することができなかった。 やがて、聖闘士のものでないオペラ歌手の身体に限界が訪れ、彼の身体は我が身を内側から焼き尽くそうとする力を、身体の外に解き放った。 |