アケローン河を渡ってから、いったい何時間 こうして走り続けているのだろう。 視界に映るものは、殺風景な岩と光のない空、時折現われて攻撃を仕掛けてくる不細工な冥闘士たちと、龍座の聖闘士のみ。 氷河は、見えないゴールに向かってひた走り続けるだけの行為に、うんざりしきっていた。 「つまらん。なんで俺が貴様なんかと延々走り続けていなければならないんだ」 それでも自らの疾駆には何らかの意味があると思うから――氷河は走ることをやめずに、彼の同行者に向かって毒づいた。 同行者から、実に納得できる答えが返ってくる。 「俺からも同じセリフを返させてもらおう」 紫龍も、不満を言葉にしないだけで、心は氷河と同じなのだろう。 不満を口にしても不満が募るだけだということを承知しているから、彼は無言で彼の務めを果たしているだけなのだ。 氷河もそれはわかっていたのだが、彼はあえて自らの不満を口にした。 「これが瞬なら、俺は瞬が俺の横を走ってくれているだけでも、いい気分でいられるだろう。百歩譲って星矢でも、奴は5分に1回は何か間抜けなことをして、俺を笑わせてくれるはずだ。なのに、何の因果で俺は よりにもよって仲間内でいちばん退屈な奴と走り続けているんだ」 「同行者が俺でなく一輝だったなら、おまえはさぞかし地獄の道中を楽しめたことだろう」 「む……」 氷河が現在置かれている状況は、最善のものでも次善のものでもない。 だが、それは、紫龍の言う通り、最悪のものでもなかった。 紫龍の切り返しによって、その事実を認識した氷河は、仕方なく口をつぐみ、また もくもくと走り始めたのである。 文句を吐き続けても無意味なことを氷河もやっと悟ってくれたかと紫龍は考え、彼は僅かに気を安んじた。 不満を平気で口に出す者は、同じ不満を無言で堪えている者の胸中に別の不満を抱かせるものである。 紫龍は、今 彼が抱いている不満以上の不満は欲しくなかったのだ。 だが、氷河は実は、不満を体外に吐き出したかったのではなく、単に この変化のない冥界の風景に退屈していただけだったらしい。 口をつぐんだのも束の間、彼はまたしても不満めいたぼやきを口にした。 「しかし、どこまで走ればゴールが見えてくるんだ。瞬や星矢たちはいったいどこに――」 『氷河』 そこに、ふいに 聞こえるはずのない声が聞こえてくる。 氷河は、立ち止まらずに、素早く周囲に視線を走らせた。 その声の主の姿はどこにもない。 氷河は落胆しかけたのだが、その声は再び氷河に、その名を呼ぶことで語りかけてきた。 『氷河』 (瞬…… !? ) 「どうした」 氷河の走るペースの僅かな乱れに気付いた紫龍が、仲間の上に視線を向けることなく、当然 足も止めずに尋ねてくる。 「いや、今、瞬の声が」 「幻聴でない本物の瞬の声を聞きたかったら、四の五の言わずに走ることだな」 「……」 それを幻聴と断ずる紫龍の判断は正しいはずだった。 瞬の小宇宙の気配は、ひどく遠いところにある。 瞬がここに――囁く声が聞こえるほど近い場所に――いないことは確実なのだ。 『氷河』 だが、三たび聞こえてくる瞬の声。 その段になって氷河は、瞬の声が自分の頭の中に直接届けられているものだということに気付いた。 氷河も、声ではなく思考で、瞬のその声に答える。 (瞬、おまえか。今、どこにいるんだ) 『僕、今、ハーデスに身体を奪われてるの』 (なにっ) 瞬のその言葉を聞いて、氷河は頭の中で絶句した。 すぐに、激しい憤りが生まれてくる。 (くそっ。どうして世の中には助平な男しかいないんだっ) 氷河の思考が即座にそういう方向に向かったのは、彼が、神であるハーデスにまで自分の価値観を当てはめたからだったろう。 要するに氷河は、自分ならそうするだろうことをハーデスもするに違いないと決めつけたのだ。 氷河の誤解に気付いたらしい瞬が、すぐに訂正を入れてくる。 『氷河、なに馬鹿なこと考えてるの! そういう意味じゃなくて、僕は今、ハーデスに身体を乗っ取られてるの』 (意味が今いち わからんのだが……) 瞬が伝えてくる言葉の意味が、氷河には、『今いち』どころか全くわからなかった。 瞬が目の前にいたら、自分は即座にその身体を抱きしめる。 瞬の身体はそうするために存在する。 そうしない人間の意図が、氷河にはまるで理解できなかったのだ。 瞬を抱きしめることをせず、その身体を乗っ取って、冥界の王は何が楽しいというのだろう。 『僕の身体をハーデスの意思が動かしている。頑張って抵抗してるんだけど、ハーデスの力は強大で、僕はこうして自分の身体の外にいる方が楽なくらい。早く取り戻さないと、僕の身体はすっかりハーデスのものになってしまう……』 (瞬……) 瞬の心が宿っていない瞬の身体――瞬のものでない心が動かす瞬の身体。 それはいったい何なのだろうと、氷河は素朴な疑念をその胸中に抱いた。 ただ、それが不愉快なものだということだけは、氷河にもすぐわかった。 そんな不愉快な事態はさっさと粉砕してしまわなければならないということも。 それはわかるのだが、瞬のいるところから遠く離れたこの場所で、では自分はどうすれば その不愉快な事態を粉砕することができるのか――。 瞬の心は、そのために仲間を頼って ここまで空間を超えて飛んできたのだろうに、瞬の期待に応える術が、氷河には思いつかなかった。 氷河は、そんな自分に苛立ちを覚えたのである。 しかし、その方策を、瞬は持参の上でここまでやってきたものらしい。 苛立つ氷河に、瞬は告げた。 |