『氷河、お願い。氷河の身体、僕に貸して』
(この身体は、もとより おまえだけのものだが、俺の身体を使って何をするつもりだ)
『兄さんを助ける』
(貸さん)
氷河は即答した。
氷河にしてみれば、一輝は、彼が瞬に近付こうとするたびに二人の間に立ちふさがる厄介な障害物でしかなかった。
そんな男を助けるために、力を貸すなど――もとい、身体を貸すなど――自分で自分の首を絞めるようなものではないか。

『氷河! 兄さんは今、ハーデスに支配された僕の身体と対決してるの。このままじゃ……』
(奴にはおまえは殺せん。おまえが危地にあるというのならともかく、一輝を助けるために動くのはごめんだ。放っておけば、ハーデスが奴を片付けてくれるというのなら、俺には願ったり叶ったりの事態だ)

『氷河、本気で言ってるの』
瞬の声が、氷河の頭の中で呆然とした響きを帯びる。
(……冗談だ)
もちろん、それは冗談だった。
限りなく本気ではあったが、確かに冗談だった。
瞬の身体が一輝を殺したら、どういう事態が生じることになるか――どんな馬鹿にでもわかることを考えることができないほど、氷河は想像力の欠けた男ではなかったのだ。残念なことに。

そんなことになったなら、おそらく瞬は、一生消えることのない苦しみを その心に負うことになるだろう。
へたをすると、兄のあとを追うくらいのことはしかねない。
冥府の王が邪魔者を片付けてくれたとしても、それで瞬が傷付き、あるいは世をはかなむようなことにでもなったら、氷河の邪魔者が消えることには何の意味もないのだ。

瞬は、氷河が自らの発言を冗談だと認めたことに 安堵したようだったが、だからといって、氷河は瞬の願いを聞き入れるつもりは毛頭なかった。
(しかし、俺の身体は貸せんぞ。おまえは、俺の身体を使って、おまえの身体を倒すつもりなんだろう。俺におまえを殺させるつもりなんだ。そんなことをさせてたまるか)
冥界の王の意図はまるで理解できなかったが、瞬が考えていることは、氷河には手に取るようにわかった。
そんなことに力を貸せるはずがない。

『氷河……。地上が滅びてしまったら……僕のせいで滅びてしまったら――』
氷河の頭の中に響いてくる瞬の声は、涙を帯び始めている。
しかし、こればかりは、氷河には絶対に受け入れ難い計画だったのだ。
(泣き落としはきかん)
氷河は、にべもなく瞬の望みをはねつけた。
氷河は瞬に食い下がられることを覚悟していたのだが、瞬は氷河の予想を裏切った。
瞬には時間が――氷河を説得している時間が――なかったらしい。
氷河の拒絶に出合った瞬は、すぐに別の手段に頼ることを彼に宣言したのである。

『ならいい。紫龍に頼むから』
(待てっ)
氷河は、自分から遠ざかろうとする瞬の声を、慌てて引きとめた。
瞬が採用としている“別の手段”――それはそれで氷河には不愉快なことだったのである。
瞬に関わることで蚊帳の外に置かれることは、氷河には我慢ならないことだった。
今度は、氷河の方が泣き落としにかかる。

(瞬。おまえ、自分が俺にどれだけ残酷なことをしようとしているのか、わかっているのか? おまえの計画がつつがなく遂行されたとしたら、おまえは仲間に倒されて、おまえを倒したのは、この俺ということになる。それで地上が滅亡を免れたとしても――そうなった時、おまえをこの手で葬り去った俺が生きていられると思うのか。おまえは俺に死ねと言っているようなものなんだぞ)

「……」
氷河の訴えに、瞬は沈黙で応えた。
瞬は諦めてくれたのかと、氷河は思ったのだが――思いかけたのだが、しかし、瞬は諦めてなどいなかった。
思い詰めたような瞬の声が、再び氷河にすがってくる。
『氷河、僕と一緒に死んで』






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