「なんだ、この者は」
氷河の登場に驚き呆れたのは一輝だけではなかった。
今は瞬の顔をした冥界の王が、不愉快そうに眉根を寄せ、彼の傍らに立つ黒衣の女に問い質す。
「は。確か、アテナの配下の聖闘士の――キグナス?」

「キグナス――」
大義のために戦う者が必ず陥る、正義と愛の相克。
人が心というものを持つ存在であるがゆえに繰り広げざるを得ない兄弟の悲劇を、憐れみの目で眺め堪能していたところに突如乱入してきた珍妙な男の名を、ハーデスは瞬の唇を使って復唱した。
途端に、氷河の中にいる瞬が苦しげな呻き声をあげる。

(どうした)
『ハーデスが僕の脳を――僕の記憶を探ってる……』
(おまえの記憶?)
では、ハーデスの意思と瞬の身体は、一つのものになった途端に記憶までを共有できるような合一の仕方はしていないということなのかと、氷河は思った。

となると、ハーデスは、望めば瞬の記憶を手に入れることができるが、彼がそれを必要としなかった場合、瞬の記憶は永遠に打ち捨てられることになる。
ハーデスが瞬の身体を支配するということは、瞬がこれまで生きてきた時間が存在しなかったことにされるということ、瞬の存在が正しく抹殺されるということ――なのだろう。
そんなことは許されないと、氷河はハーデスへの憤りを新たにすることになったのである。

そんな氷河の怒りの隣りで、瞬の心が羞恥に身悶えている。
ハーデスは、瞬の、ごくプライベートな部分の記憶を侵しているらしい。
瞬の恥じらいは こんなふうにして形成されるのかと、氷河は奇妙な感動を覚えることになった。

やがて目的のものを手に入れたらしいハーデスが、悲劇の舞台だった場所に、愉快そうな笑い声を響かせる。
「ふ……ははは。そなた、瞬を倒せると思っているのか。この身体は夜毎――」
ハーデスは、瞬が、氷河以外の誰にも知られたくないと思っているものを探り当ててしまったらしい。
氷河の中にいる瞬は、身も世もないほどの恥ずかしさに囚われていたが――氷河にもそれは感じとることができたのだが――氷河自身はそのことに関しては全く平気の平左だった。
なにしろ彼には、瞬との行為の中で他人に笑われるようなヘマを犯したことはないという自負があったのだ。

「おまえが勝手に動かしているそれは、俺の大事な瞬の身体だ」
「それを、そなたは壊すというのか」
「だから、脚を閉じろと言ったのが聞こえなかったかっ。俺の瞬は、そんな座り方はしないんだ。瞬はもっと楚々として思わせぶりなんだ。脚を開くことじゃなく閉じることで、俺を昂ぶらせる。貴様は瞬の何たるかが根本からわかっていない。瞬の身体には全く似合わん!」

『ひょ……氷河、頼むから、そんなこと大きな声で言わないで』
瞬の懇願は、怒りに燃えた氷河には届かない。
ましてハーデスには、氷河の中で瞬が恥ずかしさのあまり死にそうになっていることなど、知るよしもなかった。

「この身体は、そなたの浅ましい欲望を鎮めるために、毎夜健気に務めてきたものだぞ。壊してしまったら、二度と抱きしめることは――」
「だが、貴様は瞬じゃない」
今は抱きしめる価値もないものの側につかつかと歩み寄り、氷河はその拳をハーデスの腹に捻じ込んだ。
氷河の容赦のない一撃に、その場に居合わせた者たちの中で最も驚いたのは、もしかしたら瞬の兄だったかもしれない。

しかし、瞬の身体が、避けようと思えば避けられる拳を避けようとしなかったことで、氷河にはわかったことがあった。
氷河はそれを確かめたかったのである。
つまり、ハーデスは、瞬の心のみならず、その身体をすら愛していないということを。
少なくとも冥界の王は、人間が『愛』や『慈しみ』という言葉で表現する感情を、瞬の身体に対して抱いてはいないのだ。
「そなたは、自分が何をしているのか わかっているのか。そなたは、瞬の身体を傷付けているにすぎないのだぞ」
だからこそ、彼は、瞬の身体を盾にした脅しをかけることもできるのである。

「貴様は俺の瞬の心を傷付けた。クソ兄貴をあんな目に合わされて、瞬がどれだけ悲しんだか、そんなこともわからない瞬の“身体”に同情の余地はない」
不本意ながら、氷河にも、瞬の悲しみはわかる。
一輝の苦悩と逡巡も、非常に不本意ではあったが、氷河にはわかった。
一輝が邪魔で邪魔で仕方がない男にも わかることがわからない神。
あるいは、そんな兄弟の思いを愚かとしか思わない神。
ハーデスが形ばかりでも瞬の姿を その手にしていることに、氷河は尋常でない憤りを覚えていた。






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