『氷河……』
氷河の燃えるような怒りに 自らの心が押しのけられてしまいそうな強い力を感じながら、もしかしたら“瞬”が手を出さなくても“氷河”が氷河の意思でハーデスを倒してくれるのではないかという瞬の期待は、更に大きなものになったのである。
その期待には、だが、不安が混じっていた。

アテナの聖闘士の務めと言っても間違いではない その仕事を成し遂げた氷河が、この先 後悔を覚えることがないという確証が持てるのであれば、瞬は氷河の身体を氷河の怒りに委ねることに躊躇を覚えることはなかっただろう。
だが、この怒りが消えた時の氷河の気持ちを思うと、瞬はどうしても氷河自身にハーデスを倒させる決意を為すことができなかった。

(瞬。やはり俺は許せん。おまえの身体がこんな下品な奴に支配されているなんて)
『うん。だから、ハーデスを倒さなきゃならないの』
(倒すより、取り戻したい。どうすればいい。俺は我慢ならん)
『そうできるなら、それがいちばんいいことだけど、急がないと、ハーデスの企みのせいで地上は死の世界になってしまう。今の彼を倒すのが最も確実に地上の人々を救う道なんだよ』
(しかしだな!)
案の定、氷河は瞬の身体に全く未練がないわけではないらしい。
やはり“氷河”では駄目だと悟った瞬は、彼が最初に立てた計画を実行することを決意をした。

苦しみ、怒り、悲しみ、優しさ――。
兄と氷河と今はこの場にいない仲間たちが、“瞬”という一人の人間のために、それぞれの心に生んだ多くの強い感情。
一人の人間が一生のうちに享受できるだけの愛情を、自分は既に十二分に その身に受けたと思う。
自分は、今度はそれを彼等に返さなければならない。
なるべく彼等を傷付けることのないように“瞬”がこの世界から消えていくことが、自分が彼等に示すことのできる精一杯の愛だと、瞬は思った。

『貸してくれるって言ったよね、この身体』
氷河の返答を待たず、氷河に否応を言わせることなく、瞬は氷河の精神を捻じ伏せた。
自分の身体への感傷など、もはや感じている猶予はない。
地上は死の闇に包まれかけているのだ。

「その身体と共に滅びてください、ハーデス」
ジュデッカの石の床に落ちていたパンドラの槍を手に取り、瞬は一瞬間もためらうことなく、それを“瞬”の首めがけて突き刺した。
敏捷な聖闘士の身体に神の魂――ハーデスは紙一重のところで“氷河”が突き立てた槍をかわし、その切っ先は瞬の髪をひと房切り払うことしかできなかった。
だが、瞬の仲間のためらいのない一閃は、ハーデスに“氷河”の決意のほどを知らしめることには成功したのである。

「本気か、そなた。この者はそなたの恋人ではないのか」
氷河が描いた銀色の一閃は、ハーデスだけでなく瞬の兄をも驚愕させた。
既に意識を保っていることが奇跡としか言いようのない状態になっていた一輝は、必死に自らの意識を維持しようとして、自分自身に活を入れた。
こんなことがあるはずがないと思うほどに、意識が遠くなりかける。

「その身体は氷河にあげたの。氷河になら何をされてもいいけど、殺されてもいいけど、あなたに利用されるのは絶対にいやだ。それくらいなら、この手で壊す」
“氷河”が再び薙ぎ払った槍の切っ先が瞬の腕に突き刺さる。
白い腕から流れる赤い血と、“氷河”の全身から発せられる尋常でない殺気に、ハーデスと瞬の兄は暫時呆然とした。

「そなた、何者だ。そなたは本当に人間――か?」
ハーデスが、瞬の声で瞬に問う。
ハーデスが見知っている人間は、常に2つの種類のいずれかに属する者しかいなかった。
瞬の兄のように、他者への愛のために愚かになる人間と、他の多くの人間たちがそうであるように、自分自身への愛のために愚かになる人間と。
だが、今 ハーデスの前に立ち、冥界の王を冷静な目で見据える青い瞳の持ち主は、そのどちらでもない。
ハーデスには、それを人間の姿だと思うことができなかったのである。

一輝には既に顔をあげる力がなかった。
石の床に仰臥した彼の目に映るものは、冥界の王の玉座の上にある灰色の天井だけだった。
それでも、そんな状態の一輝にも、氷河の凄まじいまでの殺気は感じとることができた。
彼は、氷河を、アテナの聖闘士の中で最も情に流されやすい人間と認識していた。
瞬の兄にもできなかったことを、そんな男がやり遂げようとしている。
それほどの強さと非情を、彼がなぜ いつのまに その身に備えることができたのか、一輝には見当もつかなかった。
だが、ともかくこれで、瞬の苦しみは終わることになる。

(そうか、氷河が瞬を救ってくれるのか……)
そう思うと、一輝は少し気が楽になった。
これで、瞬の兄は、瞬の死を心ゆくまで悲しむことができるのだ――と。






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