氷河が、瞬の苦しみを終わらせてくれる――。 一輝のその安堵は、しかし、束の間のものだった。 氷河の壮挙を妨げる者が、ふいにその場に現われたのである。 人間よりも人間らしい、女神アテナ その人が。 「氷河、何をしているの! それは瞬ではありませんか」 「だから倒すんです。アテナの聖闘士である瞬に、この地上を滅ぼさせるわけにはいかない」 “氷河”の成し遂げようとしていることが、どれほど重大な意味を持つことなのかを知っているはずの女神は、それが地上に住む人々を滅ぼし去ろうとしている者を倒す行為だとわかっているはずのアテナが、瞬の命を絶とうとしている氷河を、厳しい声で制止する。 「いけません! それだけは絶対にいけません!」 「でも、こんなことで余人の手を煩わせるわけにはいかないでしょう」 氷河にしては冷静この上ない瞳と抑揚のない声。 彼は、アテナの登場とその制止にも たじろがなかった。 アテナの出現によって数刻の時を稼ぐことのできたハーデスが、人間の人間らしからぬ振舞いに 彼は、挑むような口調で、氷河に告げた。 「壊すのか、そなたが、この身体を。瞬はさぞかし、そなたを恨むであろう」 「“瞬”は氷河を恨まない」 「できるものならやってみるがいい。槍などではなく、その拳で」 「それがあなたの希望? “瞬”もその方が嬉しいかもしれませんね」 瞬ではなく“氷河”が嬉しそうに冷たく微笑む。 ここにいる氷河はいったい何者だと、アテナも瞬の兄も、そして氷河という男をよく知らないはずのハーデスまでもが、訝り始めていた。 それは氷河の表情ではなく、人間の表情でもない。 人間ならば、愛する者を殺す時、そんなふうに冷静ではいられない。 その死が双方合意の、たとえば心中のようなものであったとしても、彼等はためらいと苦悶を感じないわけにはいかないはずだった。 (瞬……!) 人間である氷河はもちろん、ためらいと苦悶を感じていた。 確かに、その目的を承知の上で、氷河は瞬に身体を貸すことを了承した。 だが、いざとなると、大切な人の命の重さに圧倒され、氷河はどうしても瞬の意思に逆らわずにはいられなかったのである。 瞬の魂の宿っていない瞬の身体はただの それでも――もしかしたら、瞬を瞬として生かし続ける他の可能性があるのではないかと思う心があるからこそ、なおさら――氷河は瞬の意思に逆らわないわけにはいかなかった。 それは未練というものなのかもしれなかったが、違う言葉を用いるなら、『希望』と呼べるものであったかもしれない。 人の命を生かそうとする何よりも強い力――アテナの聖闘士がアテナの聖闘士である 希望の力に揺れ動き始めた氷河に、瞬がなだめるように囁く。 『氷河……僕と一緒に死んでくれるよね?』 (瞬……) 瞬とて、アテナの聖闘士である。 希望という力の強大さも、その素晴らしさも、身に染みて知っていた。 許されることなら、瞬も、『希望』のために死を思いとどまりたかった。 その希望を追うための時間さえあったなら。 今この瞬間、地上が闇に覆われ、死の世界になろうとしてさえいなかったなら。 瞬の声の甘い囁きに、氷河は抵抗できなかった。 瞬と共に死ぬ――それは、氷河にしてみれば、『希望の成就』そのものだったから。 冷たいわけではないが冷静な青い瞳が、再びハーデスを見据える。 ほとんど抑揚のない落ち着いた声で、氷河の声は、その時の到来を告げた。 「ハーデス、覚悟!」 だが、その時、実は、その場にいる誰ひとり、氷河が本当に“瞬”を殺すとは――殺せるとは――思っていなかったのである。 一輝でさえ―― 一輝だからこそ、だったのかもしれないが――瞬を殺すことはできなかったのだ。 一輝も沙織もパンドラも、そしてハーデスも信じていなかった。 否、彼等は信じていなかったのではない。 常人には持ち得ない力と強い意思を持っていても、アテナの聖闘士は人間なのだということを、彼等は信じていたのだ。 だから、ハーデスは、氷河の拳が振りおろされた時も笑っていられた。 その拳が瞬の心臓を突き破った時にさえ、彼の顔にはまだ少し冷ややかな笑みのかけらが残っていた。 「まさか……」 どくどくと瞬の心臓から流れ出る人の命の証。 その音が、ハーデスの借り物の身体の耳いっぱいに広がる。 ハーデスは、彼の身体を 今まさに壊している者の瞳を、驚愕の思いで見詰めた。 「そなた、何者……」 「誰も僕を殺してくれないのなら、僕が殺すしかないでしょう。他の誰かに、それをさせるわけにはいかない」 冷たい石の上に倒れ 苦痛に歪み始めた瞬の顔を、氷河の青い瞳が取り乱した様子もなく穏やかに見詰めている。 青と黒と赤でできた鮮烈な色の洪水。 瞬の心臓を打ち抜いた者が誰なのかに気付かぬまま、その場にいる者たちは、その ぞっとするほど凄絶で美しい光景に言葉を失ってしまっていた。 「さあ、出ていって。その身体の最後の苦しみや痛みは僕が引き受ける」 「そなたは、しゅ……」 「そう、僕はアテナの聖闘士だよ。早く、その身体から出ていけ!」 瞬の身体の命の力は、流れ出る赤い血と共に急速に失われつつあった。 その身体にとどまることに、もはや意味はないと悟ったハーデスが瞬の身体を放棄する。 瞬の心と魂は歓喜して、本来 自らがあるべき場所へと戻っていったのである。 五感では既に苦痛しか感じることのできない、その身体の中に。 |