「瞬っ!」
瞬の意思の支配から解放され、やっと自分の意思で動けるようになった氷河は、しかし、その力を有効に使うことができなかった。
彼が打ち倒した者の横に、ほとんど崩れ落ちるようにして両膝をつく。
瞬の身体には瞬の心が在り、その瞳は瞬の心と同じ光をたたえている。
“氷河”が倒した者は、紛れもなく“瞬”だった。
その瞬が、途方に暮れた迷子のような目をした日の瞳を見詰め、小さな声で囁く。
「氷河、ありがとう。でも、氷河は死なないで……お願い」

あの甘い誘惑の声と同じ響きを持った瞬の言葉は、今は幾千の刃より残酷に、氷河の心を傷付けた。
「どうせ、こんなことだろうと思っていたんだ。この期に及んで、俺に死ぬなだと? おまえの命を勝手に消す権利がおまえにあるのなら、俺にも俺の命を自分で消す権利があるはずだ」
「そんな権利は氷河にはないよ。氷河の命は氷河だけのものじゃない。――僕のものだ。だから、生きて」
瞬は最初から氷河を共に連れていく気はなかったのだろう。
声を発するのは苦しそうだったが、瞬の言葉そのものには、最初から用意されていた台詞を読む役者のように澱みがなかった。

「おまえは神よりも強くて冷酷な生き物らしいが、残念なことに、俺は心弱い人間だ」
その時既に 氷河は、瞬と同じ程度に死にかけていたのかもしれない。
かすれた声と同様に、彼の瞳は涙さえ生むことができずにいた。

氷河を説得することを諦めた瞬が、兄と女神にすがる。
「氷河は、僕に騙されて僕を殺してくれたの。兄さん、沙織さん、氷河を死なせないで」
「瞬……」
つい先ほどまで、この場にいる誰よりも冷静な目をして瞬の心臓を打ち抜いた者が、今はまるで夢から覚めたように――むしろ、たった今、悪夢の中に迷い込んだように――愕然と四肢の力を失っている。

二人の間にあったことを即座に察することはできなかったのだが、氷河の様子を見た沙織には、瞬の懸念がすぐに伝わった。
瞬を倒した氷河が、その現実に耐えかねて自らの命を絶つ可能性を、瞬は危惧しているのだ。
「あたりまえです。私は私の聖闘士が私に断りもなく勝手に死ぬことを許しません。氷河を死なせはしません」
沙織の力強い言葉に安堵したように、瞬が大きく長い息を吐く。

「そのためには、あなたを死なせないのが いちばんだと思うのよ」
言うなり、女神の小宇宙は、恐るべき速さと強さで一気に燃え上がった。






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