牧歌的――とは、こういう光景、日常、心情のことを言うのだろう。
この世界で、瞬は空腹すら覚えなかった。
望めば、食べ物もすぐに手に入ると氷河は言い、一度試すと瞬の望みは瞬時に現実のものになったのだが、瞬には、この世界では、この世界にある果実や花の蜜を、妖精のように食する振りをしていることの方が好ましく感じられた。

夢のように美しい世界。
ここでは、「欲しい」と言葉にすれば、どんなものでも即座に手に入る。
傍らには いつも氷河がいてくれたので、瞬は孤独に苛まれることもなかった。
もちろん、氷河は瞬自身ではなく“他人”である。
彼は瞬の考えをすべて理解してくれるわけではないし、瞬自身も氷河の考えがすべてわかるわけではない。

だが、氷河が、自分を愛し求め理解しようと努めてくれていることは、瞬にもわかったので、時折表出する二人の意見の相違は、二人の間に修復不可能な亀裂を生むことはなかった。
むしろ、この世界にいるただ二人の人間が異なる考えや感性を持っていることは、二人の間の心地良い刺激になった。
些細な行き違いも、二人ならすぐに妥協点を見付けることができ(大抵は氷河の方が折れてくれた)、再び気持ちを寄り添わせることができるのだ。

太陽のない世界には夜と昼の別はなく、そのせいで瞬は自分の時間の感覚に自信が持てなくなりかけていた。
もしかしたら自分は、十分な間を置いて求めたつもりで、一日に何度も氷河に「して」と言っているのかもしれない――と不安になった瞬は、ある時 氷河に、「して」と言う代わりの合図を決めることを提案した。
氷河の服の裾を掴んだら、そうしてほしいのだと思ってくれと。

言葉で求めることも動作で求めることも、求めていることに変わりはないのだが、瞬は、それを言葉にせずに済めば、求める時の恥ずかしさが少しは薄らぐような気がしたのだ。
「裸でいる時にもっとしたいと思ったらどうするんだ」
瞬をからかうように そう言いながら、氷河は瞬の提案を受け入れてくれた。

時折、瞬の胸には、自分は本当に生まれた時からこの世界にいたのだろうかという疑念が生じることがあったのだが、以前の記憶が失われていることの不安は、氷河と抱き合うことで忘れることができた。
この世界の氷河は、瞬が望む通りに愛撫をしてくれる。
そうしてほしいと言わない限り、意地悪もしない。
優しいばかりの愛撫でも、氷河は十分に瞬を燃え立たせる術を心得ていたが、“意地悪”を望めば、見事に意地の悪い男にもなってくれた。

この世界は本当に、すべてが瞬の望む通りになる世界だった。
この世界――氷河と二人きりの世界――では、大きく心が乱れることはない
“不安”は漠然としていて、具体的な“怖れ”にはならず、切迫感がないので、瞬はその不安を あえて解消しようという気にもならなかった。
その作業に取り組み始めたら、この世界が失われるのではないかという根拠のない不安が、瞬に勇気を持たせることをさせなかったのである。

どこまでも穏やかに過ぎていく時間――その中で、やがて、瞬は気付いた。
氷河に抱きしめてもらうこと以外の望みを持たない瞬に向かって、氷河が定期的に同じ質問を知り返すことに。
「何か欲しいものはないか」
他愛のない言葉を交わしながら、あるいは互いに互いの身体を愛撫している時にも、彼は何気なく、繰り返し、瞬に問うてくるのだ。

そんな時、瞬は大抵、
「氷河の他には何も」
と答えていた。
瞬のその答えを聞くたび、氷河は、その返答を嬉しく思っているような、それでいて落胆したような不思議な表情を作る。
瞬のその答えを、氷河は決して不快に感じているわけではないらしいのだが、そして、違う答えが返ってくることを強く望んでいるようにも見えないのだが、それでも彼は、瞬のその答えに接するたび、落胆と安堵が混在したような眼差しを瞬に向けてくるのだ――。

「何か欲しいものはないか」
氷河が今日も尋ねてくる。
瞬は、氷河が欲しい時には彼の服の裾をつまみ、静かに過ごしたい時には、首を横に振った。
氷河がまた、あの不可思議な表情を浮かべる。
ここは、望めば すべてが手に入る世界。
だからこそ、瞬は何も欲しいとは思わなかった。






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