「おまえは本当に、俺の他に欲しいものはないのか?」
瞬は、今こそ、「氷河の他には何も!」と、あの答えを叫びたかったのである。
だが、瞬は、そうしなかった――そうすることができなかった。
唯一必要だと思い、唯一欲しいと思うものを失いかけている今この瞬間、瞬にはやっと この世界がどういう世界で、何のために存在するものなのかがわかったのである。

この世界の存在の意味がわかること――それは、どうすれば人は幸福になれるのか、氷河が望んでいることは何なのか、真の楽園とはどういうものなのか、そして、この世界は楽園ではないのだということ――を知るということだった。

人は、自分の望まない事態や障害を乗り越えた時、幸福を感じることができる。
今ならば、たとえば、氷河を失わないこと、そのために力を尽くすこと――その目的を果たした時に、“瞬”は幸福を感じることができるかもしれない。
これまで、この世界は、瞬が望むものしか存在しない世界だった。
だから、瞬は幸福になることはできず、ゆえに、この世界は楽園ではなかったのだ。
この世界には、真の喜びはなかったのだから。

氷河を失うかもしれない――心は逸り焦っているはずなのに、その真実が見えた瞬の心は徐々に平静を取り戻し始めていた。
「……変なことを望んでもいい?」
「どんなことでも」
そう答えながら、氷河は『氷河が欲しい』という瞬の望みだけは叶えてくれないのだ。
だが、氷河は、瞬の望みを拒む権利を持っている。
氷河は生きている人間なのだから、彼には彼の望みというものがあり、好意を持てない人間の側にいたくないと彼が望むことは、ある意味では至極自然なことである。

瞬にはわかり始めていた。
氷河は、本当は、“瞬”の側にいたいのだ。
ただ彼が側にいたい“瞬”は、この世界にいる“瞬”ではない――。

それがわかっているから――瞬がその望みを氷河に告げたのは、氷河を取り戻すためというより、自分を取り戻すためだった。
“瞬”が生きている自分自身を取り戻すこと、それが氷河の願いだと思ったから。
そうして“瞬”が幸福になることが、氷河の幸福なのだ。

「僕は、僕が乗り越えるべきものがほしい。多分、生きる目的とか張り合いとか、そういうもの」
「生きる目的? それは俺では駄目なのか? 俺に愛され、俺を愛することでは」
たった今、瞬にその愛を与えられないと告げて瞬を驚かせたのは、氷河自身だったはずである。
なのに、その愛は必要ではないのかと、彼は尋ねてくる。
彼の言葉は矛盾していた。
だが、それが全く矛盾したものではないことが、今の瞬にはわかっていた。

「氷河は目的じゃないの。氷河は、僕と一緒に生きていく人で、苦難や障害を一緒に乗り越えていく仲間。そういう存在であってほしい。それが僕の望みで、僕が幸福になるために必要な条件の一つだよ」
氷河の瞳には、喜びと希望の光が宿り始めていた。
「どんな目的が欲しいんだ? その目的が、たとえば永遠に叶わないものだったらどうする。平気か?」
「必ず叶うとわかっている目的は、生きる目的にはならないでしょう」
「たとえば、それが終わりのない戦いだったら」
「え?」

誰がそんなものを望むというのか――と、瞬が訝ったのは一瞬間だけだった。
瞬の世界を囲んでいた花霞は晴れつつあった。
花霞の向こうにある世界、自分が以前身を置いていた世界のことを、瞬は思い出しかけていた。
あの世界――敵との争いと憎しみで混沌としていたあの世界。
だが、あの世界こそが、生きている人間にとっての楽園だったのだ。

氷河が言葉を重ねてくる。
「おまえが乗り越えなければならないものが、自分が傷付き、他人を傷付け、終わりは見えず、苦しむだけの戦いだったなら」
「氷河」
「ここにいれば、おまえは心も身体も傷付くことはない。ここはエリシオンだ。至福の園。おまえは、ここに住む権利を持っている。ここには何の憂いもない。苦しみも悲しみも、おまえの気分を害するものは何ひとつ。おまえは望めばずっとここにいられる。俺の愛もおまえだけのものだ」
そう言いながら、その実 氷河は、この世界にいようとする瞬には、彼の愛を与えることはできないのだろう。

氷河が望んでいること。
それは、“瞬”がこの世界を出ることだったのだ。
“瞬”が、この世界からの脱出を望むこと、だった。

花霞の向こう――“瞬”の望みがすべて叶い“瞬”が必要とするものだけが存在する“瞬”の世界ではなく、多くの人々がそれぞれの願いをその胸に抱いて生きている世界。
そこはおそらく、挫折と絶望に満ちている。
そこに住む人々の大部分は、瞬の願いを叶えることになど腐心していない――瞬を愛していない。
だが、『生きよう』と思う人間は、そんな世界で生きるしかない――そこでしか生きられないのだ。
挫折と絶望に満ちた世界――そんな世界にしか、希望もまた存在しないのだから。

「でも、エリシオンは死んだ人の住む国でしょう」
「おまえは、叶うかどうか わからない夢を追う苦しみに耐えられるのか」
「……氷河」
今 瞬だけを見詰めている青い瞳は、瞬の幸福だけを願っている瞳だった。
瞬にはそれがわかった。
その瞳にたたえられている苦渋と慈しみの意味を忘れていられた自分が、今となっては不思議に思える。

瞬は、思い出さずにはいられなかった――だから、瞬は思い出した。
この瞳があったから、自分はあの世界で生きて・・・いられたのだ――と。
「でも、それが『生きる』ってことだよね」
「そうだ」
氷河が嬉しそうに言う。
「そうだ」
幸福そうに、同じ言葉を、彼は繰り返した。

瞬は、氷河の瞳の中で希望の色が輝きを増していく様を見、そうすることで、瞬自身もまた幸福な気持ちになることができた。
これが“僕たち”の望むことなのだと確信をもって、自分の願いを氷河に伝える。
「僕は、僕たちの世界で、氷河と一緒に生きていきたい」
「俺もだ」
この世界で初めて、氷河は、瞬に求められたからではなく、氷河の方から瞬を抱きしめてくれた。
「瞬、俺もだ」

瞬を抱きしめる氷河の腕には、加減を忘れたように強い力と熱がこもっていた。
その強さと熱さに驚き、氷河がどれほど その答えを待ち続けてくれていたのかに気付いた瞬は、ふいに泣き出したいような衝動にかられたのである。
その答えに辿り着くことができて本当によかったと、瞬は思った。






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