これから夜を迎えようとしているカブキ町は、『雑踏』という言葉はこういう状況を表現するためにできた言葉なのだろうと確信できるような様相を呈していた。
無論、瞬は初めて足を踏み入れる場所である。

会社帰りのサラリーマンたちと これから店に出勤する者たちが 同じ通りで交錯し、その状態に慣れた人々は、すべての人間が違う方向に向かって歩いている状況を、不思議とも奇妙とも不自然とも感じていないらしい。
全く整然としておらず、人々の目も心もそれぞれ別の方向を向いている。
他人がどこに向かおうが我関せずといった様子の人間たちは、だが、一つの集合体として、彼等のいる街を妙なエネルギーで包み込んでいた。
人の声は無意味な雑音と化し、ネオンサインだけが声高に一方的に自分の主張を主張している街。
そんな街のいちばん広い通りに、瞬は氷河によって引っ張り込まれてしまったのである。

実はさしたる広さを持たないその街の人口密度は、某動物園のそれとは比べものにならないほど高いものだった。
すれ違う人々が瞬たちに向ける視線も、動物園で出会った人々のそれとは比べものにならないほど、遠慮がなく不躾である。
だが、誰も声はかけてこない。

おそらく彼等の目に、氷河は、これから同伴出勤するホストの類に映っていた――のだろう。
氷河はもちろん彼等の思い込みに気付いていたが、彼としては、それで何の問題もなかったのである。
他人に不愉快な仕事話を持ちかけられたくないという彼の目的は、見事に達せられていた。
「やはり、女連れだと声をかけにくいということか。星矢にしてはいい考えだったな」

確かに、氷河に求人情報をもたらしてくる者はいなかった。
しかし、氷河は、通りに佇む者たち、すれ違う者たち――その街にいる ありとあらゆる人間の注目を集めていた。
必然的に、彼の隣りにいる瞬も それらの視線にさらされることになる。
氷河に『目立つな』と望むのは無理な話なのだろうが、無遠慮に向けられてくる他人の視線に全く動じる気配を見せない氷河に、瞬は驚嘆していた。
瞬は、この街の持つ独特のエネルギーが怖くて、ほとんど氷河にしがみついてしまっていたのである。

自分の上に集まる他人の視線の各々の出どころを ひと渡り見回した氷河が、ふいに奇妙な北叟笑みを浮かべる。
「ご期待に沿ってやるか」
彼等が氷河に対してどんな期待を抱いているのか。彼等の考えていることが氷河にはわかるのか――そんなことを氷河に確かめることさえ、今の瞬にはできなかった。
瞬は今 何か言葉を発すれば、その発言の内容さえ、彼等の好奇の視線に盗み聞きされそうな気がしてならなかったのだ。

そんな瞬の耳許に、僅かに上体を傾かせた氷河が、唇を寄せてくる。
彼の唇が瞬の頬と耳に触れていたのは ほんの1秒2秒の短い時間だったのだが、途端に瞬は全身を硬直させ、その足をとめた。
「瞬? 怒ったのか? 悪乗りが過ぎたか?」
氷河が――氷河もまた、その場に足をとめて、瞬に尋ねてくる。
つまり彼は、衆目の中で、彼等が氷河をそう・・と思い込んでいる“同伴出勤するホスト”を演じてみせたものらしい。
してみると、さしずめ瞬は、手練てだれのホストに持ち上げられて有頂天になっている世間知らずの金づる娘という役どころなのだろう。

瞬は氷河に対して怒りを覚えたわけではなかった。
ただ傷付いただけだった。
そして、瞬は、それ以上 沈黙を守っていられなくなった。

「氷河は誰にでもこんなことするの」
泣きそうな声で、瞬は氷河に尋ねた。
半ば以上、氷河を責めているつもりだったのだが、氷河は瞬の憤りと傷心に気付いた様子もない。
「俺は、彼女なんてものを持ったのは、これが初めてだ」
悪びれもせず、氷河が、いっそ爽やかと表しても齟齬のないような口調で断言する。
それでも、瞬は彼の言葉を喜ぶことはできなかった。

ならば、氷河にとっては、これは本当にお遊びなのだ――。
そういえばロシアという国は、男同士でも大胆なスキンシップを自然に行なう習慣があるらしく、瞬は、以前報道番組で、歳のいったロシアの政治家同士が親愛の情を示すために頬摺りをしながら抱き合ってる場面を見たことがあった。
悪意も作為もない人間を責めたところで、氷河は その言動を改めるどころか、なぜ自分が責められるのかということすら わかってくれないのだろう。
瞬はまた瞼を伏せて黙り込んだ。






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