しかし、氷河の(仮)病人の陶酔は、長くは続かなかった。
実際には氷河は病人ではなかったし、嘘で瞬を心配させ、その時間を奪っているのだと思うと、やはり気が咎めてくる。
安らかに眠ることは当然できず、かといって、無言で病人についていてくれる瞬を気の利いたお喋りで楽しませてやることもできない。
せめて本当に熱があったなら、罪の意識だけは感じずに済むのに――と、氷河は頑健な自分の身体を恨み始めていた。

1時間ほど、心中で静かな葛藤を続けたあと、氷河は、やはり瞬に自分の部屋に戻るように言おうと思ったのである。
瞬をこれ以上騙し続けていることは、氷河の良心が――というより恋心が――耐えられそうになかった。
「瞬」
低い声でその名を呼んだが、答えがない。
日は暮れかけていたが、睡魔の訪れにはまだ早い時刻だというのに、椅子に腰掛けている瞬は、微かに首を前方に傾けてうたた寝をしていた。

「瞬……?」
もう一度、今度はもう少し声の音量をあげて、瞬の名を口にする。
それでも瞬が目覚めないことを確認して、氷河はベッドの上に上体を起こした。
そっと瞬の頬に手を伸ばし触れてみたのだが、瞬はそれでも目覚めない。
こころなしか、(仮)病人の自分より、看護人である瞬の方にこそ微熱があるように、氷河には思われた。
少なくとも、疲れているのは卑怯な(仮)病人より看護人の方のようだった。

「……」
今更ながらに――考えてみれば、自分は瞬に嘘ばかりついているという事実に思い至る。
“振り”だと言って毎日瞬を連れまわし、悪ふざけを装って その肩を抱き、どさくさ紛れにスキンシップを図り、あげくの果てが病人の真似事である。
他人の注意を自分に引きつけようとするのに、これほど姑息なやり方があるだろうか。
氷河は突然、今になって、強い自己嫌悪の念に襲われた。

ベッドを抜け出し、瞬の目を覚まさせないよう細心の注意を払って、氷河は瞬の身体を自分のベッドへと移動させた。
本音を言えば、そのまま瞬の隣りに潜り込んでしまいかったのだが、そうもいかない。
瞬が目覚めるまで、自分はソファにでも移って時間をやり過ごそうと決め、氷河はもう一度ベッドの上の瞬の方に視線を巡らせた。

瞬の眠りは、うたた寝にしては深いもののようだった。
就寝中でも 敵襲があった時にはすぐに臨戦態勢に入ることができるような眠りを心得ている聖闘士が、椅子から寝台へと 場所と体勢を変えさせられても目を覚まさないという事象は 妙である。
普通なら目覚めてもいいはず――目覚めるはずなのだ。
もしかしたら瞬も、自分と同じように最近あまりよく眠れていなかったのではないだろうか。先ほど瞬の頬に触れた時に感じた微熱は睡眠不足からくるものだったのではないだろうかと、氷河は疑った。

その寝顔を見詰めていると、どうしても、何があっても、どんな手段に訴えてでも、瞬を他の誰かには渡したくないという気持ちが込みあげてくる。
青白い瞼、白い頬と、桜色の唇――。
氷河は再び、注意深く、その手を瞬の左の頬に伸ばしてみた。
触れても、瞬は目覚めない。

早く この手を離してしまわなければ危険だと、氷河の身体の内奥で警鐘が鳴っていたが、氷河はその警告に従うことができなかった。
手が勝手に、魔法にでもかけられたように氷河の意思に逆らい、瞬の瞼に触れ、唇に触れ、やがて そのまま首筋におりていく。
離さなければと思うのに、瞬のやわらかい肌の感触が氷河の指と手の平に 強い磁石のような力を及ぼし、どうしても離すことができない。
離すことはできなかったが、離れさえしなければ、その肌の上をすべるように移動することは可能だった。
瞬の胸元に、その手が入り込もうとする。

「ん……あつい」
氷河の指先は、いつのまにか微熱どころではない熱を帯びてしまっていたらしい。
「氷河っ」
瞬は、その熱を、まだ覚醒しきっていない状態で知覚したのだろうが、夢と現実の狭間で呟いた自らの声と言葉のせいで、瞬は即座にはっきりと覚醒してしまったようだった。
彼が看護していた病人の名を呼び、瞬はぱっと瞳を見開いた。

もちろん、氷河はすぐに、瞬の胸元に忍び込みかけていた自分の手を引っ込めようとしたのである。
だが、瞬が目覚めてしまっても、瞬の肌の魔法は氷河の手と指を捉えたままだった。
氷河の意思に反逆して、その手は、瞬から離れたくないと訴え、駄々をこねる。
氷河は、我が身を二つに引き裂かれるような痛みに耐えて、なんとか その手を瞬の上から引き剥がした。
既に、それは遅すぎる苦痛だったが。
自分が何をしていたのかを瞬に気付かれてしまったことは、氷河にもわかった。

「す……すまん! ね……熱でぼうっとしていた。おまえを見ていたら、どうしてもおまえに触れたくなって、この手が引きつけられて、この手が勝手におまえの――」
自分でも見苦しいと感じずにいられないほど、しどろもどろの弁解。
しかし、瞬は、仲間のしでかしたことに嫌悪の表情を示すことはなかった。
「あ……」
瞬はどうやら、氷河の指の熱さを 氷河の風邪による熱が上がったせいだと誤解して、飛び起きたものらしい。
そうではなかったことを知って、瞬はまず小さく安堵の息をついた。

それから、少し不自然に思えるほどの間を置いて、瞬が氷河に尋ねてくる。
その場の状況を考えれば、それは至極当然の疑念だったのだが、氷河はなぜか瞬のその言葉を ひどく思いがけないものと感じることになった。
「氷河……は、そういうことをしたいの?」
瞬は、瞬らしくない直截的な言葉で、氷河にそう尋ねてきた。
「え? いや……その……したくないと言えば嘘になるが、聖闘士が女を作るのは、やはり、その色々と問題があるし、おまえは そこいらの女よりずっと綺麗で、いや、だからというわけじゃなく、俺はただおまえが――」
いったい自分は何を言っているのだと、氷河は自分自身に苛立ちを覚えてしまったのである。
『そこいらの女』など最初から眼中になかったのだと言い直さなければ、瞬に誤解されてしまう――と慌て、あせり、気持ちが急くほどに、適切な言葉が思い浮かばない。
そんな氷河に、瞬は再びありえないことを問うてきた。

「用が足りれば、氷河は僕でもいいの」
「な……何?」
「僕でもいいなら、僕、夜も氷河の彼女の振りしてあげるよ。氷河に何も要求せず、氷河を束縛せず、氷河が死んでも泣かなきゃいいんでしょう? 僕、多分、できるよ。クールでドライな彼女の振り」
「……」

瞬が趣味の悪い冗談を言っているのでなければ、瞬がたちの悪いカマトトを演じているのでなければ、これは、もしかしなくても、噂に聞く据え膳という代物である。
この場合の『彼女の振り』とは、つまり『その行為を為す相手』という意味に解することしかできない。
そして、瞬の目は笑っていない。
少なくとも瞬は、ジョークとして その言葉を吐いたのではなさそうだった。

拒絶するのはもったいない――と、まず氷河は思ったのである。
見た目に美しく、味も最高級であるに違いないご馳走が目の前にあり、氷河はもうずっと長いこと空腹だったのだ。
だが――氷河はなぜか、今ここで差し出されたご馳走に飛びついていくわけにはいかない――と、強く感じたのである。
今は、それは食してはならない――と。

「それは願ったり叶ったりだが、今日は駄目だ。熱があるせいで、ちゃんとできる自信がない」
精一杯の理性を発動させて、氷河は瞬にそう答えた。
言い終えてから、自分が告げた言葉に、氷河は思い切り落胆したのである。






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