「なんで、そこで押し倒さねーんだよ!」
翌日、氷河から経緯の報告を受けた星矢は、仲間を頭から怒鳴りつけてきた。
星矢の非難は当然のものだったろう。
なにしろ、仲間のために、そのお膳立てをしたのは、他ならぬ星矢自身だったのだ。
それが9分9厘 成就しかけたところで、当の本人がすべてを台無しにしてしまったのである。
星矢には氷河を非難する権利というものがあった。

だが、氷河には氷河の都合と希望と言い分があったのである。
「俺は、瞬と、クールでドライな関係になんかなりたくないんだ!」
「ホットでウェットな関係になりたいわけだ」
その場に居合わせた中で最もクールな人間だったのは、おそらく、怒りのために頭から湯気を立ちのぼらせている天馬座の聖闘士ではなく、得難いご馳走に手をつけないまま下げてしまった自分に懊悩している白鳥座の聖闘士でもなく、龍座の聖闘士その人だったろう。
その龍座の聖闘士が、実にクールかつ穏やかな口調で、嘆かわしげに呟く。
「師の教えに真っ向から逆らっているな。カミュもあの世でさぞかし嘆いていることだろう」

「やかましいっ!」
何と言われようと、こればかりは曲げられない。
氷河は紫龍の嫌味に怒声で答えた。
紫龍をなら、怒鳴りつけることもできた。
しかし、相手が瞬となると、そうもいかない。

恋する男の純情を頭から否定してくれる仲間たちに背を向けてラウンジを出ようとした氷河は、そのドアを開けたところで出くわしてしまった瞬に素知らぬ顔もできず――あんなやり方で据え膳を用意してくれた瞬を非難することは、なおさらできず――塩を振りかけられた青菜のように意気消沈してしまったのである。
瞬にあんなことを言わせてしまった そもそもの原因は自分の“手”にある。
氷河は、瞬に対しては下手したてに出ないわけにはいかなかった。

「瞬、あー……昨日のことで、話があるんだが」
「……うん」
昨日はなぜあんなことを言ったのか――と、問われる覚悟はできていたらしい。
瞬は、氷河の前から逃げようとはしなかった。

「おまえは――その何だ。つまり“振り”でそんなことができるのか」
「だって、僕も氷河とおんなじで、彼女なんて作れないもの。死んでも泣かない彼女なんて、そう簡単に見付からないとも思うし」
それは瞬があらかじめ用意してきた“答え”だったのだろう。
『恋人が死んでも泣かない彼女』というものが、それほど得難いものだとは、実は氷河は思っていなかった。
瞬は自分が涙もろいから そう思うのだろうが、強い女も 情の薄い女も、世の中には五万といる。

しかし今、この場の問題はそんなことではない。
問題は、氷河が瞬に 泣かない彼女の“振り”をさせているように、瞬もまた氷河を、瞬が死んでも泣かない彼女の代わりにしようとしているということだった。

氷河は、瞬のその言葉に、尋常ではなく強い衝撃を受けたのである。
そして、自分は瞬に“振り”をさせていたくせに、逆の立場になった途端、瞬の言葉に衝撃を受ける自分自身を、氷河はあまりに勝手だと思った。
だから、それ以上は瞬に何も言えなくなる――。






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