「いっそ僕の方が倒されてしまえばよかったのに……」
それが狡猾な敵の罠だと知らされても、瞬は傷付かずにはいられなかった。
もし あの“兄”が命を落としていたら、あの“弟”はどれほど嘆き悲しんでいただろう。
それは、瞬にとっては到底 他人事で片付けられるようなことではなかったのだ。

「僕は、聖闘士にだって、心から望んでなったわけじゃない。人を傷付けずに済むのなら、ずっと無力な人間のままでいたかった。傷付けられることの方が人を傷付けることより、ずっとずっと楽だもの……!」
自室に戻った瞬は、沙織や仲間たちの前では かろうじて言葉にせずに済んだ心中の悲憤を、氷河に向かって吐き出した。
そうして、ベッドの上で膝を抱えて丸くなり、額を膝に押しつけて、言っても詮無い泣き言を言わずにいられない自分の顔を隠す。

瞬のベッドの脇に立ち、氷河はしばらく そんな瞬の肩を見おろしていたが、やがて瞬には触れずに抑揚のない声で告げた。
「好きな方を選べ。一、俺に抱かれて、一時いっときつらいことを忘れる。二、俺にお休みのお話をしてもらう」
「……」
氷河の提示した選択肢の二つめが意想外のものだったので、瞬は思わず伏せていた顔をあげ、その視線を氷河の方へと巡らせた。

「お話って、どんな」
それを瞬の選択と受け取って、氷河が瞬のベッドに腰をおろす。
途方に暮れた子供のような瞬の顔を しばし見やってから、氷河は、
「花になりたかったライオンの話だ」
と言った。
「花になりたかったライオン?」
僅かに首をかしげた瞬に浅く頷いてから、氷河は瞬に“お休みのお話”を語り始めた。

「ある日、ライオンが二匹のウサギを食った。食わなきゃ死ぬから食った。それだけだ。ところが、そのウサギたちには子供がいて、子ウサギから親を奪ってしまったことに罪悪感を覚えたライオンは、残されたウサギの子を自分の子として一生懸命に育てるんだ。自分が食事しているところをウサギの子には見せないようにしてな。だが、やがて、ライオンは他の動物を食って生き永らえる動物だということを、ウサギの子は知ってしまう」

「それで――」
氷河が何のためにそんな“お話”を持ち出してきたのかが、瞬にはわからなかった。
ただ、そのライオンの運命が気になって、彼にその話の先を求める。
瞬の心配そうな目を見詰めながら、氷河はその求めに応じた。
「ウサギの子は、ライオンと親子として暮らしていた家を飛び出し、ライオンは我が子に見捨てられたショックで、ものが食えなくなるんだ。痩せ細ったライオンは、やがてライオンを心配して帰ってきたウサギの子に、『生まれ変わったら、誰も傷付けずに済む花になりたい』と言い残して死んでいく」

「……」
救いようのない“お話”だと、瞬は思ったのである。
童話らしい奇跡が訪れて、ライオンとウサギの親子が幸福になる結末を期待していただけに、瞬の落胆は大きかった。
それは本当に子供のための“お話”なのだろうか。
そんな物語が、いったい子供たちにどんな希望を与えられるのだと、瞬は沈鬱な気持ちになった。

「かわいそう、そのライオン……。お話の中のことなんだから、死んでしまうのじゃなく、本当にお花になって、もう一度ウサギと生き直せたらよかったのに。お話の中でくらい、願いが叶ったっていいのに」
実に正直な瞬の感想を聞いて、氷河は、一瞬 口許を歪める笑みを作った。
誰も傷付けずに済む花になりたいと願っているのは、他の誰でもない瞬自身である。
瞬が『かわいそう』だと感じているのは、花になることのできないシュン自身なのだ。

「もし、望みが叶って、本当にライオンが花になれたら、その花はウサギのエサだ。ウサギはその花を、平気で食えるだろうか」
「え……?」
「泣きながら食うのか、食えずに飢えて死んでいくのか。そのどちらかしかないだろうな。かわいそうに」
氷河の声音には、いつものような温かみがない。
ライオンではなくウサギの方に同情してみせる氷河の口調には、花になりたいと望む者を責めているような響きがあった。

「氷河、何が言いたいの」
表情を硬くして尋ねた瞬に、氷河がほとんど間をおかずに、
「おまえは弱い者になりたいのか」
と問い返してくる。
問われたことに 瞬がすぐに頷くことができなかったのは、それが紛れもない事実だったから、だった。
瞬は、人を傷付けずに済む“弱い者”になりたかった。

「弱い者になれば、人を傷付けずに済むという考え方は間違っている。弱い者は、その弱さで他人を傷付ける」
「傷付けたくて傷付けるわけじゃ……!」
口を突くようにして そういう反論が出たのは、瞬が心情的には既に“弱い者”になってしまっていたからだったろう。
“弱い者”は、自分が他人を傷付ける力を持っていることになど、考え及びもしないのだ。

「事実、あの兄弟はおまえを傷付けているじゃないか。おまえの方が強者なのに」
瞬の考え違いを、氷河が即座に否定する。
それから氷河は、今は強者でもあり弱い者でもある瞬に、きっぱりと断言した。
「人間にできるのは、他人を傷付けるつらさにも、他人に傷付けられるつらさにも耐えられる強い人間になることだけだ。強い人間になろうと努力することだけだ」
「……」

氷河の言うことは、わからないでもないのである。
『努力すること』だけなら、自分にもできるかもしれない――とも思う。
だが、その努力を続けるにも、人には力と強さが必要なのだ。
その力を、いったい自分はどこからどうやって手に入れればいいのだろう。
闘いでの勝利は、勝者を傷付けるばかりだというのに――。

「それができなかったら……その人は死んだ方がいいの――僕は死んでしまうしかないの。僕には、花になりたいと望むことさえ許されないの」
「おまえが死ねば、おまえを愛している者たちが傷付き、悲しむことを忘れるな。それを当然と思うことができる傲慢な人間だけが、自らを殺す権利を行使する」
「氷河……」

弱い人間になることも、傲慢な人間になることも、瞬には許されていなかった――。



■ 『はなになりたい』 By すまいるママ



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