男はつらいよ






歳の頃は大学を出たばかり。
が、それにしては、吊るしのリクルートスーツとは思えない上等の仕立てのスーツをそつなく着こなした男が、運転手つきの黒塗りの車から城戸邸の正面玄関に降り立ったのは、テレビのニュースが有名企業の入社式の様子を映し出すようになった春ただ中のことだった。
背は高く、しかし、その割りに猫背になっていないのは、武道の心得があるからなのだろう。
黒のスーツにグレイのネクタイ、ネクタイピンは真珠。
一度も染めたことのないような黒髪が、少し春の風に乱されている。
グラード財団総帥の私邸訪問に緊張しているのか、それなりに端正な面差しには あまり表情らしい表情はたたえられていなかった。


「法事でもあんのかよー」
客間のドアを開けるなり、星矢が大声を響かせたのは、黒塗りの車の中から黒の上下を着た男が姿を現した場面を、彼がラウンジの窓から見掛けていたからだった。
グラード財団総帥宅を様々な用事で訪ねてくる客は多かったし、それらの客たちが砕けた格好をしていることは非常に稀だった。
それでも、パーティが催されているわけでもないのに黒の上下で この屋敷にやってくる客は、やはり珍しかったのである。

ドアの横に立っていた辰巳徳丸氏は、星矢の遠慮の無い大声にぎょっとして、慌てて星矢を廊下に押し戻した。
「呼んだのは瞬だけだぞ。なんでおまえらが来るんだ」
星矢の後ろに紫龍までがいるのを見て、彼は忌々しげに舌打ちをした。

「瞬は、お茶の片付けを済ませてから来るってさ。先に行っててくれって言われたんだけど……。呼んだのは瞬だけって、俺たちに用なんじゃねーの?」
仲間内の誰か一人が呼ばれるということは、青銅聖闘士全員に召集がかかっていることと同義――という認識のもと、星矢はここにやってきた。
そうではなかったことを知らされて、彼はその事態を怪訝に思ったのである。

「馬鹿者っ! 静かにせんかっ! 客間にいらっしゃるのは、井深電器産業株式会社社長のご令息様だぞ」
そんな星矢を、辰巳徳丸氏が頭から怒鳴りつける。
星矢は、更に深く首をかしげた。
「社長のご令息って、つまり、社長でも何でもない人ってことだろ? 偉くも何ともない人ってことじゃん」
その通りである。
星矢の発言内容は、全く正しい。
正しいことは正しいのだが、それは、グラード財団総帥の側近にしてみれば、大いに想像力を欠いた発言でしかなかった。

「いずれは社長になられる方だということだっ。そんなこともわからんのかっ!」
「その未来の社長サマが、瞬だけに何の用なんだよ」
井深電器産業株式会社といえば、先代が、小さな二輪自動車の部品工場を、戦後の高度経済成長期の時流に乗り、世界でその名を知らない者はないブランドにしてのけたことで知られる有名企業グループの基幹会社である。
最近はむしろ、パソコン等の精密機器の製造やIT関連事業で業績を伸ばしている優良企業でもあった。
その優良企業の社長がグラード財団総帥を訪ねてきたというのなら、その城戸邸訪問は意外でも何でもない。
客人が社長ではなく『ご令息』であり、訪ねる相手が沙織でなく瞬だと知らされたから、星矢はこの事態を奇妙に感じたのである。

「あなたたち――」
客間のドアは完全には閉まっていなかった。
家人たちのやりとりが客人に筒抜けになっている状態を、これ以上捨ててはおけないと思ったのか、『ご令息』の相手を務めていた沙織が、星矢たちの側に来て渋面を見せる。
「騒がしいわよ。お客様がいらしているのだから、静かになさい。瞬はどうしたの」

「何者ですか」
客人に聞こえぬ程度の音量で、紫龍が沙織に問う。
問われた沙織は、盛大に、かつ 実に大仰な素振りで溜め息をついた。
その後、沙織の口から出てきた言葉は、
「婚約者――ということになるかしら」
というもので、その言葉は、星矢と紫龍を尋常でなく驚かせることになったのである。

「沙織さんにそんなもんがいたのかーっ !? 」
沙織は、アジア有数の財力を誇るグラード財団の総帥である。
そして、井深電器産業株式会社は、アジア各国のみならず欧米にも現地法人や工場を数多く持つ世界的企業で、その企業形態や分野は異なるものの、『グラード』に勝ることはあっても劣ることのないブランド力を持った一大企業グループ。
二つの企業体は、その規模においても影響力においても、ほぼ同等の力を有する大企業だった。
二人の釣り合いはとれている。
しかし、それが『ご令息』自身の意思によるものかどうかはともかく、女神アテナを妻に望む男を、星矢たちは命知らずの身の程知らずとしか思えなかったのである。

沙織は、だが、彼女の聖闘士たちに はっきりと首を横に振ってみせた。
そして、言った。
「瞬を呼んだと言ったでしょう。瞬の婚約者よ」
「へ?」
「は?」
沙織のその言葉を聞いた星矢と紫龍は、驚くことも忘れるほど驚くことになったのだった。






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