数日後、井深電器の御曹司から、沙織を通して瞬に食事の誘いがあった。 「どこの高級レストランだよ? 俺がついてってやる」 瞬が瞳を曇らせるのとは対照的に、星矢が瞳を爛々と輝かせる。 星矢の目当ては見え透いていたのだが、沙織は彼をたしなめることはしなかった。 なにしろ、瞬の婚約者が瞬を招待したレストランは、無関係な者が気軽に入店できるような店ではなかったのだ。 「ご自宅よ。お母様が腕を振るってくださるとか」 星矢が脳裏に描いたご馳走が、一瞬にして消えてしまう。 が、星矢は、食べ損なった高級料理を残念に思うより先に、我知らず感嘆の息を洩らすことになったのだった。 「家庭料理かー。あのあんちゃん、うまいとこ突いてくるなー」 「家族に紹介もできるし、家風を知ってもらうにも有効。一石二鳥というわけだ」 仲間たちの率直な感想に、瞬が泣きそうな顔になる。 氷河をなら、いくらでもやりこめたかったのだが、瞬を泣かせるつもりは全くなかった星矢は、口許を僅かに歪めた笑みを、瞬に向けてきた。 「もう、ほんとのこと言うしかないだろ。親まで騙すわけにはいかないし」 「そんなことわかってる。でも、彼を傷付けたくないんだよ!」 瞬が氷河の過激な解決方法を採用したくない、本当の理由――。 それは、グラード財団と井深電器産業の業務提携話に亀裂を入れたくないからでも、その過激な解決策が引き起こすかもしれない騒動を避けたいからでもなかった。 あの善意の人を傷付けたくない――ただ、その一事のゆえだったのである。 「なんで傷付けたくないんだよ」 「なんで……って、だって、彼は何も悪いことしてないんだよ。むしろ――」 むしろ彼は善良で誠実で、それが男子である瞬に向けられたものでさえなかったら、彼の一途さは『美しい』と評されてもおかしくはない美徳だった。 失望で報いられるようなことを何ひとつしていない人の心を傷付けることを、瞬は、極力避けたかったのである。 彼が自分のせいで傷付くことを、瞬は恐れていた。 そんな瞬に、星矢があっけらかんとした顔で応じる。 「俺たちだってそうだぜ」 「え?」 「俺たちだって、何にも悪いことしてないのに、親はいないわ、無理矢理聖闘士なんてものにならされるわ、そのためにきっつい修行は受けさせられるわ、おまけに、客を転ばせて笑ってるようなお嬢様が女神だわ、敵は倒さなきゃならねーわで、いつも傷だらけで、いつも命懸け。なんで俺たちばっかり そんな目に合わなきゃならないんだって、俺、美穂ちゃんに詰め寄られたこともあるんだぜ。俺たちはなーんにも悪いことしてねーのにさ」 「でも、それは……」 それは、アテナの聖闘士たち個々人に与えられた“さだめ”なのだ。 人間の力で変えることはできない。 運命を支配する力を持たない人間にできることは、ただ―― 「けど、だから俺が不幸かっていうと、そうでもない。おまえは?」 「僕は……不幸じゃないよ」 「だろ」 人間にできることはただ、自分を不幸にしてしまわないことだけなのだ。 瞬と瞬の仲間たちは、これまでの時間を、そのようにして生きてきた。 「でも、僕たちは――」 「俺たちは?」 「僕たちは強いじゃない。逆境に耐えて、それを乗り越えてきた分、僕たちは他の人たちより強いでしょう。でも、あの人は、これまでそんな つらい目に合ったことがなくて、だから その分、きっと――」 弱くて、もろいに違いないのだ。 些細な傷心や挫折で二度と立ち上がることができなくなるかもしれないほどに。 それが、瞬の恐れていることだった。 「おまえ、それはさ、ある意味、逆差別なんじゃねーのか。あのあんちゃんは弱いって、勝手に決めつけてさ。あのあんちゃんだって、強いかもしれないじゃん。それって、あのあんちゃんへの優しさじゃなく、侮辱なんじゃねーの? 堅気の人間だからって甘やかすのはよくねーぞ」 「……」 星矢の言うことは正論――に思われた。 そして、星矢にそう言われることで、瞬は初めて気付いたのである。 自分が、『自分と自分の仲間たち』と『それ以外の人々』の間に確たる一線を引き、峻別していたこと。 前者は強い者たちであり、後者は弱く、前者によって守られなければならない者たちなのだと 決めつけていたことに。 それは確かに思いあがりである。 とんでもない傲慢だった。 自らの傲慢に思い至った瞬は、同時に、自分のその傲慢の根拠、自分が自分を強いと思い、自分を不幸と思わずにいられた理由を思った。 それは、決して自分自身の力によるものではなかったことに気付く。 ――瞬は瞬一人きりで生きているものではなかった。 瞬にはいつも、信頼できる仲間たちがいた。 だから強くなることもできたし、不幸な人間になることもなかった。 恵まれた環境に育ち、それゆえに瞬に“弱い人間”と決めつけられていたあの人が、瞬と同じものを持っていないと、誰に言えるだろう。 星矢と紫龍と、そして氷河を 順に見詰め、長く吐息してから、瞬は沙織に尋ねたのである。 「沙織さん。彼には友人は大勢いるんでしょうか。ご家族は――」 「あなたとの婚約の話をまとめたお祖父様は数年前にご他界されたけど、ご両親は健在よ。誠実な人だし、ちょっと融通がきかないほど堅苦しいところはあるけど、人のために親身になれる人だから、友人も多いわ。かくいう私もその一人だし」 「なら、詰まらないことで少しくらい傷付いても、慰め助けてくれる人はいくらでもいますね」 「彼自身も、そんなに弱い人ではないと思うわ」 沙織の答えに、瞬は安堵した。 あの真っ当極まりない人生を歩んできた人は、必ずしも弱い人間ではないし、望んで自らを不幸にするような愚かな人でもないに違いない。 心を安んじて、瞬は沙織に依頼した。 「食事の件は断って、彼と会えるようにしていただけませんか」 「明日にでも、こちらに来てもらうわ」 瞬の指が、彼の隣りに立つ氷河の指に絡んでいる。 瞬が何をしようとしているのかは察しがついているようだったが、沙織は瞬の望みを叶える旨の答えの他には何も口にしなかった。 |