「僕には好きな人がいるんです。その人が大好きで、離れたくないし、離れられない」
彼に本当のことを告げると決めてから、それでも、なるべく彼を傷付けずに済ませるための言葉をいくつも用意していたはずなのに、実際に彼に対峙した時に、瞬はそれしか言うことができなかった。
『お気持ちは嬉しかった』『あなたにはもっとふさわしい人が』――その類の言葉がすべて、彼の強さを信じていない言葉に思えて、どうしても言うことができない。
事実だけを端的に伝えて、それ以外の言葉を告げることのできない自分に罪悪感を覚え、瞬はその顔を伏せた。

「……そんなすまなそうな顔をなさらないでください」
客間のソファで 小さく身体を丸めてしまった瞬に、御曹司が、多少無理に作った感はあるものの、かろうじて笑顔と呼べるものを浮かべてみせる。
それでも顔をあげない瞬に嘆息し、彼は困ったように語り始めた。

「僕は――僕の祖父をとても尊敬していたんです。強くて前向きで、身内のことを褒めるのは気がひけますが、祖父は本当に素晴らしい人だった。小さな町工場を、その誠意と熱意で世界有数の大企業に育て上げた人で、人が生きていくためには何よりも誠意と熱意が大事なものと、僕に教えてくれた人だった。裏切られても人間不信になるな、裏切った人に裏切りで復讐するな、人を憎むことで自分の心を守ろうとするな。これからおまえは卑怯な人間をいくらでも見ることになるだろう。裏表のある人間は、井深の息子であるおまえに表の顔しか見せようとしないだろう。それでも、相手の気持ちや立場を考えれば、大抵のことは許せる。おべんちゃらを言われたら、それで喜ぶような人間と思われている自分自身を恥じろ。人は、こちらが信じなければ信じてくれない。――本当に、色々なことを教わった」

「あ……」
瞬には望むべくもない肉親の愛情。
そんな幸せを語る人はどんな表情をしているのだろうと思い、瞬が恐る恐る顔をあげる。
そこには、瞬の仲間たちと同じように優しく思い遣りに満ちた眼差しをした青年が一人いて、彼はまっすぐに瞬を見詰めていた。
「瞬さんは、その祖父が選んでくれた許婚いいなずけで――祖父の決めたことなら間違いはないだろうと、僕は確信していて――。そうですね、僕は瞬さんの気持ちを考えなさすぎた。僕がこんなに思っているんだから、瞬さんも同じに違いないと勝手に決めつけていた。謝るべきは僕の方だ。本当にすみませんでした」

「そ……そんなことないです!」
逆境に耐えることで強くなる人間もいれば、愛されることで強くなる人間もいる。
否、むしろ、人間は愛されることのみによって、自分が誰かに愛されていることを知り得る“知恵”を持つことのみによって強くなり、逆境にも耐えられる人間になるのだと、瞬は彼の微笑を見て思った。

「祖父の目に間違いがなかったことを確かめられて、とても嬉しい。正直に言ってくれて、ありがとう」
「僕は――」
瞬が『弱い』と決めつけていた人は、瞬が思っていたよりも はるかに強い人だった。
彼に対して昨日まで無意識のうちに抱いていた軽侮の念を、瞬は心から悔いたのである。
泣きそうな顔になった瞬に、御曹司は重ねて笑みを見せてくれた。

「あの時、僕が転んだのは沙織さんのいたずらのせいだったんでしょう? 彼女が笑いを噛み殺しているのに、あなたは泣きそうな目をして僕を気遣ってくれた。とても可愛らしかった」
「沙織さんは――」
「彼女にはとても感謝しています。あなたに会いたいという、僕の我儘を叶えてくれた」
騒動が起こることを承知の上で、沙織が彼の願いを聞き届けた訳。
瞬には沙織の真意は測りかねたが、瞬もまた沙織の采配には感謝していた。
自分だけが強いというアンドロメダ座の聖闘士の思いあがりを、彼女はただしてくれたのだ。

「なに、人生は長いから、今度は自分の目で瞬さんのような人を探します。あなたも――幸せになってください」
順境に甘えず強い人は最後まで落胆の色を隠し通し、瞬のための笑みを浮かべたまま、そうして瞬の前から去っていったのだった。






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