沙織は、その日のうちにジェットヘリを用意してくれた。
彼女が抜かりなくロシア政府に手をまわしてくれたおかげで、瞬と沙織を乗せたジェットヘリはロシア軍から領空侵犯の警告も受けずに、星矢から連絡のあったアンバルチクの町の郊外の雪原に無事に着陸することができた。
聖闘士の足でなければ到底辿り着けないところに、氷河はいるという。
瞬は沙織を町で唯一のホテルに残し、多くを語ろうとしない仲間たちと共に、氷河の許に向かったのである。

瞬が連れていかれたのは、何もかもが雪で覆われているせいで、岩土でできた山なのか、あるいは氷の隆起にすぎないのかの判断の難しい山と山の間にある深い渓谷の底だった。
夏には雪解け水がささやかな清流を造るのだろう その場所に、氷河はいた。
半ばうつ伏せに横たわり 横顔だけを見せている彼の身体は、氷の棺に閉じ込められていた。

カミュの作るフリージング・コフィンのように綺麗な方形もしていなければ、透き通ってもいない棺。
それは、横たわった氷河の上に雪や氷がまとわりつき、少しずつ時間をかけて彼を包むことでできたものらしい。
アメリカの標高6000メートルを越える高山で、山の神の生け贄に奉げられた氷づけの少女の亡骸が発見されたことがあったというが、それがこんなふうだったのではないかと、瞬は思うともなく思ったのである。
しかし、その天然の氷の棺の中にいるのは、神に奉げるために着飾らされた少女ではない――。

「な……なに、これ。どういうこと」
氷河を覆っている氷雪の棺に触れるために脚を折ることすら、瞬にはできなかった。
そのありえないものを間近で見、触れる勇気さえ持つことができない。
彼は生きているのかと仲間に尋ねることさえ、瞬は恐ろしくてできなかった。

「この山の頂上のあたりにさ、氷が妙な風穴を作ったらしくて、それが陸風を受けて、夜になると神経に障る不気味な音を この辺りに響かせてたんだ。その音が、まるで山の主ゴールヌィの呻き声みたいで、みんな気味悪がってて――氷河は10日くらい前に、それを壊してくるって言って村を出て、その日のうちに不気味な声は聞こえなくなったそうなんだけど、声を消した人間はずっと帰ってこなかった――」

「カミュが生き返って、こんな悪ふざけをしたの」
瞬には星矢の説明がまるで聞こえていなかった――聞いていなかった。
己れの目に見えるものを否定することに、瞬は自分の持てる力のすべてを傾けていたのだ。
痛ましげに瞬を見やり、その先の言葉が出てこなくなった星矢のあとを、紫龍が引き継ぐ。

「右手の指と指の間に、白い花の花びらのようなものが見える。最近、この辺りは異常気象のせいで気温の変動が激しくて、春のように暖かくなったり、真冬の寒さに逆戻りしたりするのを繰り返していたらしい。麓の村では、例年なら6月にならないと咲かない花が咲いたりもしていたそうだ。この山も同じで――氷河はおそらく、この崖の上で花が咲いてるのを見付けて、それを取ろうとして、この谷に落ちたのだと思う。谷そのものを隠していた雪や氷の塊りと一緒にな。そうして、怪我をして動けなくなり、雪と氷に閉じ込められて、こんなふうに――」

「氷河は聖闘士だよっ! どうして……そんなことありえないよ!」
「降下するつもりもなしに、200メートルもの高さから落下したら、いくら聖闘士でも無事ではいられないだろう。こんな綺麗な状態でいる方が奇跡なんだ。普通なら、頭が割れて、血や脳髄が飛び散って……いや」
さすがの紫龍が口ごもる。
瞬のために、彼は、それ以上 氷河の起こした奇跡に言及することを避けた。

「こんなこと、ありえない……」
瞬は、これは悪い夢だと思った。
夢なのだから、早く覚めてほしい――と。
それしか考えることができなかった。
他には何も考えられない。
思考が全く働かない。
音も聞こえず、寒さも感じられなくなり、周囲の白い景色は、その“白”という色さえ失っていく。
立っていることさえできなくなり、瞬は、崩れ落ちるように横たわる氷河の脇に両膝をついた。






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