「おまえは汚れなき童貞様だそうだな。教皇庁の支配下にある国々の法律では、処女・童貞は神の心に添う者で、罪を犯しても処刑はできないことになっている。俺は、これからおまえを汚そうとあれこれ画策するが、死にたくなかったら、誘惑に耐えろ」

枢機卿が席を外すと、ヒョウガは早速 彼の本音を吐いた。
訪ねる者のない華麗な牢獄には、客人用の椅子はない。
ヒョウガはシュンのための椅子――ヴェネツィア産の上等の椅子だった――に、シュンの許可を得ずに腰をおろした。
シュンが不思議そうな顔をして、ヒョウガを見詰める。
「あなたは……僕を処刑したいのではないの」

「俺は、教皇庁のジジイたちの偽善者振りが気に入らなくて、子供じみた反抗心から放蕩の限りを尽くしているモンテ・コルヴィノ一族のはみ出し者だ。おまえの処刑が実行されても、俺の罪が増えるだけで、何の得もない」
それは事実だった――嘘ではなかった。
が、シュンはヒョウガの言葉をそのまま受け入れたようには見えなかった。
天使のように汚れない面差しの裏に 疑いの心を潜ませている――のではなく、彼は賢いのだ。
シュンのその様子に、ヒョウガは満足めいたものを覚えたのである。
エデッサの捕虜は、話のできる相手だと思った。

「しかし、なぜ、大伯父や教皇はそんなにおまえを恐れるんだろうな。教皇庁には、イスラムのアサシン派顔負けの暗殺団もいると聞く。その気になったら、おまえを暗殺するくらい、簡単にできるだろうに」
「馬鹿げた伝説を不気味に思っているからでしょう」
「馬鹿げた伝説?」
「エデッサ王家の者は、母の胎内から生まれたままの童貞を守っていれば、かつてエトルリアの民が支配したように、地中海世界を支配する力を得ることになるという伝説です」
全くそんな伝説を信じてはいないという顔で、シュンはその馬鹿げた伝説の内容を語ってくれた。

確かに馬鹿げている――が、それは実に壮大な信仰ではある。
地中海世界――トルコ、ビザンチン、ローマ、イタリア、更にそこにエジプトをも含むとしたら、最近台頭著しいフランク王国を除いたとしても、それは――。
「それは、つまり世界を支配する力だぞ」

いったいどこの誰がそんな大胆な伝説を思いついたのかと、もちろんヒョウガは驚いた。
しかし、シュンの推察が事実だったとしたら、教皇たちがそんな伝説を歯牙にかけていることの方がヒョウガにはより大きな驚きだった。
「天の神のしもべである枢機卿や教皇が、神の言葉と預言者の預言以外の言葉を信じているわけか……」
つい呆れた口調になる。
シュンは軽く首を横に振った。

「信じているわけではなく、不気味に感じているだけでしょう。でも、無用の心配です。僕の家系は――エデッサの王家の一族は誰もが皆 情熱的で、世界を支配する力などより恋の方を選ぶ者ばかりでしたから」
「しかし、おまえには恋をしている時間も機会もない。処刑がずるずると先延ばされるようにしていれば、いずれ世界を支配する力を得ることができるのかもしれないぞ」
「そんな伝説……。到底神の言葉とは思えません。そういう点では、僕は、神の言葉以外の言葉を信じません」
「おまえは、神の声を聞いたことがあるか」
「……いいえ」

シュンは、ヒョウガの質問に残念そうに首を横に振った。
別に残念がるようなことでもあるまいと思うと同時に、ヒョウガは、これほど清らかな目をした者にも神の言葉が与えられないというのなら、人の世での権力の獲得と維持に汲々としている聖職者たちなど推して知るべし――とも思ったのである。

「では何を信じる。おまえには信じるものがないのか」
「これまでは、両親の言葉を信じてきました。両親は、もちろん処女でも童貞でもありませんでしたけど、教皇庁の方々よりはずっと神を畏れ敬っていました」
「俺は、エデッサの王夫妻の人となりは知らないが、その見解には諸手を挙げて賛同する」
このシュンを生み育てた敬虔な神の信徒。
地上の神の周囲で保身に汲々とし、私欲を貪る者たちより、よほど清廉潔白な人物だったに違いない。
しかし、ヒョウガは、彼等の忘れ形見である この清らかな捕虜を汚さなければならない。
できることなら、ヒョウガとて こんな仕事はしたくなかった。
が、彼は、自分が生き永らえるために、真正面から決定的に枢機卿に逆らうわけにはいかなかったのである。

「明日、男を天国に連れていくための手練手管に長けた女を連れてくる」
罰当たりな言葉を吐いて、彼はエデッサの捕虜が閉じ込められている塔の部屋を出た。
結局、大伯父の言う通りに動かざるを得ない自分に、ヒョウガは無性に腹が立っていた。






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