「――というメールを、こちらにお住まいの瞬くんから受け取ったんです」
A5縦サイズ横書き印刷で6枚になる長いメールを、星矢と紫龍は、何とか顔から火を吹き出さずに読み終えることができた。
彼等がメールを読み終えるのを待っていたメールの受け取り人は、その読了を確認するや否や、二人に不安そうな顔を向けてきたのである。

四万十川歩しまんとがわ あゆむと名乗ったその男性の年齢は60を少し出たところ、医大の名門として有名な利根川大学生理学部教授にして、ピカチューセッツ工科大学・脳認知科学センター所長を務めたこともあるという、文句のつけようのない肩書きを有する人物だった。
紫龍は彼の名を数年前のノーベル生理学・医学賞候補としても聞いたことがあった。

グラード財団総帥の私邸を訪ねてきているというのに、「瞬くんに会わせてほしい」とは言っても、「財団総帥に挨拶したい」とは言い出さないところをみると、これを機にグラード財団とのコネを持ち、あわよくば寄付金を募りたい――などという あさましい魂胆を抱いての訪問でもないらしい。
ひたすら学究畑を歩み続けてきた人間らしく、世間を知らない人の好さのようなものが、その表情からも窺い知れた。
だからこそ かえって、星矢と紫龍は、この世間ずれしていない人物の扱いに困っていたのである。

利根川大学付属病院の公式サイトに『健康相談サイト』なるコーナーがあったことが、事の発端だった――らしい。
メールで閲覧者からの相談を受け付け、下読みをした担当者たちが興味深い症例を選び、学内の医師たちからの回答をサイトに載せるというシステムになっていた そのコーナーの総括責任者として、彼は名を貸していたということだった。
本来なら瞬の出したメールがじかに彼の手に渡る可能性は皆無だったのだが、健康相談コーナーに協力していた内科・外科・精神科・呼吸器科・消化器科・循環器科・外科・整形外科・形成外科・脳神経外科他の主な医師たちが全員、「私の専門ではないように思う」と回答を避けたために、ついに瞬のメールは名門利根川大学生理学部教授の許に辿り着いてしまったらしい。

「私は瞬くんの症例に非常に興味を引かれ、すぐに彼のアドレスに詳細を聞きたいと返信のメールを出したんです。しかし、返ってきた返事は、『誤解でした。忘れてください』という非常に短いもので、その後、いくらメールを送っても返事はもらえなかった」
「……」
なぜ彼は、それきり見知らぬ人間からの相談メールを忘れてしまわなかったのか、むしろ、そのまま捨て置いてほしかったのに――と、星矢と紫龍は内心で思っていたのである。
しかし、一つの分野で頂点に立つほどの人物が真理の探究に向ける情熱は、さすがに半端なものではないらしい。
彼は、彼が“非常に興味を引かれ”た症例の真実を突きとめずにはいられなくなってしまったらしかった。

「私は、メールの主の身が心配でならなかった。だが、瞬くんに関して私の手許にある情報は、病院のサイトに送られてきたメールのアドレスと、本名なのかハンドルにすぎないのかもわからない『瞬』という名前だけだった……」
「それだけの情報で、よくここがわかりましたね」
「瞬くんのメールアドレスの一部で検索をかけたら、グラード財団のギャラクシアン・ウォーズのコーナーというのがヒットしたんだ。そこに当病院が受け取ったメールのアドレスと酷似したアドレスが掲載されていたので、もしやと思い、そこから辿ってみたんだ」
「ああ、あのサイト……」

国際的に活躍している生理学者は、さすがにwwwの使い方を心得ているらしい。
彼がこの邸にやってくるまでの経緯を聞いた紫龍は、おもむろに渋面を作った。
グラード財団公式サイトにあるギャラクシアン・ウォーズのコーナーには、利根川大学生理学部教授の言った通り、あのイベントに参加した青銅聖闘士たちの写真と共に各人のメールアドレスが、『ファンレターの宛先はこちら』という文言と共に記載されているのだ。
瞬の場合は、『shun_andromeda@grade-foundation.net』。
おそらく瞬は、『shun_andromeda@grade-foundation.asia』あたりのアドレスを使って利根川大学病院のサイトにメールを出したのだろう。

これまでいくら求めても聞き入れてもらえなかった該当ページの削除を、もう一度沙織に要求することを決意しつつ、紫龍は四万十川教授に向き直った。
「しかし、見知らぬ人間のために、なぜそこまで……。メール自体がいたずらだという可能性は考えなかったんですか」
「私は医者だ。瞬くんは病気だと思う。それもかなり深刻な。ここで彼のことを忘れ、そのために彼の病状が手遅れになるほど進行してしまったら、私の医師としての良心が許さない」

「瞬が病気?」
瞬自身は自分が病気なのではないかと疑って問題のメールを出したのであるし、四万十川教授も瞬からのメールを病気の症状を綴ったものとして読んだのであるから、彼の判断はさほど意外なものではなかったろう――瞬の病気の真の原因を知っている者以外の人間には。
そして、瞬の病気の真の原因を知っている星矢と紫龍は、四万十川教授の言葉に大いに慌てることになったのである。

「まさか。あの馬鹿げたサイトをご覧になったのであれば、既にご存じでしょう。瞬は聖闘士なんですよ。確かに瞬は一見したところは華奢な女の子にしか見えないが、その実、身体も心もそこいらのK−1選手より はるかに頑丈にできている」
紫龍の実に尤もな意見を、利根川大学生理学部教授である四万十川氏は、いとも優雅に聞き流した。
そして言った。
「私は、瞬くんの症状によく似た症例を知っているのだ」
「症例……って」

世界最高水準の頭脳の持ち主の発言に、星矢と紫龍が顔を見合わせる。
四万十川博士は、自らの診断に絶対の自信を抱いている様子で、きっぱりと断言した。
「瞬くん自身が病人なのだとは言わない。瞬くんは、嗜血症ヘマトフィリー淫血症ヘマトディプシーの患者に犠牲者として選ばれたのだと断じて、まず間違いはないと思う」

「ヘマとデフレの患者?」
「ヘマトディプシー。血液に対して性的渇望を覚える病気のことだ。その患者はヘマトディプシア。つまり、吸血鬼だな」
「は……?」
「へ……?」






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