氷河と瞬の関係がぎすぎすしているせいで居心地の悪い城戸邸にいることにいたたまれず、その日、星矢は朝から星の子学園に避難していた。 童心にかえって子供たちと大騒ぎをすることで憂さを晴らした星矢は、星の子学園で昼食まで済ませてから良い気分で城戸邸に帰ってきた。 声を張り上げて子供たちとボールを追いかけていた勢いのまま、再び氷河と瞬の関係改善のための特攻をかけてみようと気負って帰宅した星矢の出鼻は、だが、ラウンジから響いてきた氷河の怒声によって もろくも挫かれてしまったのである。 「あんな滅茶苦茶な命令に従ってみせるのは、俺への当てつけかっ!」 いくら氷河の声が激しい怒りをみなぎらせていたとはいえ、まさか その声の力がドアを開けたとは思えないので、ラウンジのドアは元から完全には閉められていなかったのだろう。 おかげで星矢は、雷のごとき氷河の怒声だけでなく、蚊が鳴くように小さな瞬の声をも しっかりと聞き取ることができた。 「そんなつもりじゃ……気に障ったのなら、ごめんなさい……」 第三者の目から見れば、どう考えても人に非難されるべきは氷河の方である。 にも関わらず、瞬は、どこまでも気弱な様子で氷河に謝罪の言葉を返す。 だが、それは、更に氷河の神経をいらつかせるだけのものだったらしい。 「なぜ、おまえは……なぜ……!」 氷河の声は、怒りが極まったかのように震えていた。 星矢は、氷河が瞬を殴るのではないかと、本気で心配してしまったのである。 当然 星矢は、すぐに二人の間に割って入り、氷河を落ち着かせようとした。 が、星矢はそこで、彼にしては冷静に、そうすることを思いとどまったのである。 氷河が攻撃的になっている相手は瞬である。 そして、瞬は仮にも聖闘士である。 その瞬が、まさか氷河の拳を大人しく受けたりするはずがない。 反撃はしないにしても、よけるくらいのことはするだろう。 つまり、瞬が肉体的に傷付く恐れはない。 だとしたら、二人の会話をここで中断させず、このまま黙って二人のやりとりを聞いていれば、氷河と瞬がこんなことになった訳が、もしかしたらわかるかもしれないではないか。 そう考えた星矢は、ラウンジに飛び込んでいって氷河の怒りを静めるための努力をすることより、その場で息を殺して、二人の会話の行き着く先を見届けることの方を選んだのである。 幸い、氷河は瞬に手をあげるようなことはしなかった。 二人は、言葉を交わすことをやめ、睨み合っていた。 正確には、ずっと目を伏せたままの瞬を、氷河が一方的に睨みつけていた。 そうして、沈黙を守ったまま約10分。 いつまでもそうしたまま二人が動きを見せないことに、星矢はやがて焦れてきてしまったのである。 同時に喉の渇きを覚えた星矢は、いったんその場を去ることにした。 二人に気付かれないように細心の注意を払いつつ、ラウンジのドアの前を離れる。 そのままキッチンに移動した星矢は、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、その中身を勢いよく喉の奥に流し込んだ。 500ミリリットルの水を一気に飲み干し終えた時に初めて、星矢は、あの二人のやりとりを盗み聞きながら自分がいかに緊張していたかということを自覚したのだった。 (いったい、あの二人、なんであんな……) 星矢には、氷河の豹変の理由が、いくら考えてもわからなかったのである。 氷河はこれまで、瞬に対してだけは素直な男だった。 瞬に対して従順だったのは、むしろ氷河の方だったのである。 氷河が瞬に対して特別の好意を寄せていることは、火を見るより明らかだった。 対して瞬は、誰にでも優しく、仲間たちに平等・公平の態度を崩すことはなかった。 だが、氷河は瞬だけを見詰めている。 一見したところでは、氷河の恋はどう考えても片思いという代物だった。 彼が瞬に強く出られるはずがない。 瞬は決して 自分に向けられる人の好意を利用するような人間ではなかったが、瞬は、その公平さで常に氷河の優位に立ち、その優しさで氷河の上に君臨する優越者であり支配者だった。 そして、氷河は、惚れた弱みで瞬には頭のあがらない、支配される側の人間。 それが、この突然の形勢逆転である。 それは、星矢にしてみれば、下克上の世界でも ここまで明瞭に主従が入れ替わることはないだろうと思えるほどの激変だったのだ。 何がどうなればこんな事態がありえるのだろうかと訝りながら、星矢は再び元の場所に戻ったのである。 そうして星矢は、世界というものが自分のあずかり知らぬところで刻々と千変万化・有為転変を繰り返しているものだということを知ることになったのである。 星矢がほんの10分ほど目を離していた間に、事態は一変していた。 ――とんでもない方向に。 |