『死都ブリュージュ』――確か、あれはローデンバックの19世紀末に書かれた憂愁そのものの小説だ。 ベルギーの北西部にあるブリュージュの町で、亡き最愛の妻にそっくりの女に出会い、宿命的な恋に落ちた男の物語。 貞淑で彼だけを愛してくれた妻。 身持ちが悪く狡猾で人の心を弄ぶ――だが、愛する妻にそっくりな下品な女。 性悪女に散々翻弄され煮え湯を飲まされた男は、最後に、亡き妻を侮辱したその女の首を絞め、殺してしまう――。 その物語に俺の未来を見る思いがしたから――というのではないが、俺はシュンの側に近付くことができなかった。 姿が似ているというだけのことで、瞬ではない瞬に恋をしかねない自分を、俺は怖れていた。 それほどに――俺は“瞬”に飢えていたんだ。 外見が似ているというだけの理由で 瞬ではない者に恋をすることは、俺の瞬への侮辱だし、瞬に似ている瞬への侮辱にもなるだろう。 それだけならまだしも、シュンが瞬に似ていない部分を見付け、そのことでシュンに憎しみを覚えるようになり、ローデンバックの小説のような悲劇的な最後を迎えることになったら、それはすべての人間にとっての不幸だ。 俺には、このホテルを出、日本に逃げ帰ることが、今の俺にできる最善のことのように思われた。 俺の瞬は、俺が瞬以外の誰かを恋するようになっても 俺を責めたりはしないだろう。 だが、その恋の理由が『死んだ人に姿が似ているから』というのでは、瞬が俺の新しい恋を心から祝福してくれるはずもない。 ――まだ言葉も交わしていない人間を相手に何を馬鹿な心配をしているのかと、俺は自分でも思っていた。 だが、『ある人間が瞬に似ている』ということは、俺にとっては、それくらい重要なことだったんだ。 俺がホテルのエントランスで、そんな杞憂とも思える心配を心配している間に、瞬に似たシュンは、カウンターの前を離れ、エントランスホールの横にあるラウンジのソファへと場所を移動した。 彼は――そして、カウンターにいる総支配人らしい男も――エントランスホールに突っ立っている金髪碧眼の男が日本からの客だとは思わなかったのだろう。 今すぐ、この死者の住む町を出れば、俺は今まで通り 平穏に、俺の瞬だけを思って生きていくことができる。 前に進むことは不吉だ。 やっと落ち着きつつあった俺の心の平穏は必ず失われる。 それはわかっていたのに――。 わかっていたのに、俺は前方にあるカウンターに向かって歩き始めていた。 「城戸の名で予約が入っているはずだが」 つい先程までシュンと話していた支配人らしい男に、俺は自分が日本からの客だということを知らせた。 壮年の域に入った褐色の髪の男が、少し意外そうな目を俺に向けてくる。 それから彼は、ちらりと横目でシュンの方を見た。 通訳は不要だと思ったのだろう。 そんな彼の仕草を委細無視して、俺は俺の用件に入った。 「そう見えないかもしれないが、俺は日本人だ。そして、ドイツ語は不得手。あの子を通訳として雇うことはできないだろうか。金ならいくらでも出す。滞在予定は1週間だが、あの子の年収くらいの額は出しても構わない」 俺の要請に、当然彼はひどく驚いたようだった。 俺の後ろにいたポーターが、彼に何か合図でも送ったのだろう。 支配人は得心した顔になり、表情から驚きの色を消し去って、再び俺の方に向き直った。 「1週間で1年分の報酬というのは、当方にとっては非常に有難いお申し出ですが、当方の通訳が お客様に その報酬に見合ったサービスを提供することを お約束することはできません」 俺が流暢にドイツ語を話していることには、彼は言及しなかった。 今まで似たような申し出をした者たちが幾人もいたということなのだろう――と、俺は察した。 「なにしろ、当方で用意している通訳は男の子ですから」 ラウンジの隅にいるシュンを指し示して、彼はそう言った。 「見ればわかる」 「それは慧眼。一目で見抜くとは珍しい」 俺がシュンの性別を誤解しているのではないことを知った彼は、軽く両の肩をすくめた。 そして、話の内容を率直なものに変える。 「触れなば落ちん風情をしていますが、あの子は非常に お硬い子で、そういったことを期待しているのであれば、お客様のご要望は まず叶えられないと存じますが」 「なおさら結構」 では、俺の瞬に似たあの少年は、ローデンバックの小説の主人公が死都で出会った第二の女のように 不品行な人間ではないのだ。 支配人の忠告は、俺の期待をしぼませるどころか、逆に俺を喜ばせるものだった。 ちょうど日本からの客がない時期だったらしい。 俺の願いは叶えられた。 |