そのホテルでいちばんいい部屋を、沙織さんは予約しておいてくれたらしい。
いい部屋と言っても、小さな町の新興のホテル、どこぞの有名ホテルの設備には比べようもなかったが、野宿も平気な身の俺には申し分のないものだった。
ベッドルームにダイニングルーム、キチネットにドレッシングルームがあり、今時のホテルらしく、ライティングデスクにはインターネットに接続できるパソコンも設置されている。

日本人はホテルに着いたらまずバスを使うという伝説が未だに信じられているのか、シュンが俺の部屋にやってきたのは、俺がその部屋に落ち着いてから1時間以上の時間が経ってからだった。
「明日から、お客様の通訳をさせていただくことになった者ですが、明日の予定の確認を――」
入室を許可する俺の声は震えていたに違いない。
シュンは、その声までが瞬そのものだった。

シュンがドアを開ける気配。
一瞬ためらってから、意を決して、俺は顔をあげた。
視界に、瞬の姿が飛び込んでくる。
ソファに腰をおろそうとしていた俺は、次の動作に移ることができなくなった。
間近で見ると、シュンは本当に俺の瞬に似ていた。
顔も背格好も何もかもが、2年前の瞬と同じだった。
違うところが何もない。
2年前の瞬と同じなのだから、もちろん彼は俺の瞬ではないのだが、まるで奇跡のように二人は同じ姿をしていた。

そのシュンが、ドアの前に立ったまま、俺の顔を見上げて、やはり動かない。
もしかしたら彼は本当に俺の瞬で、彼の雇い主が“氷河”だということを認め驚いているのではないかと、俺はありえない期待を抱いた。
「どうか……したのか」
ありえない期待のせいで、声がかすれる。
俺に尋ねられると、彼は はっと我にかえったような顔になり、少しきまりの悪そうな笑顔を作った。

「あ、失礼しました。綺麗な方なので、驚いてしまって。いい男だから血迷わないように気をつけろって言い含められて来たんですけど、ほんとだ。気をつけなくっちゃ」
「……」
シュンのその言葉を聞いた俺の落胆といったら!
100年の恋も冷めるとは、こういうことを言うんだろう。
もしかしたら彼は彼の上客を持ち上げているつもりなのかもしれなかったが、そう言って笑う笑顔は瞬そっくりなのに、外見は瞬そのものなのに、正しく中身が俺の瞬ではない。

俺の瞬は、人の外見を話題にして、そんな軽口を叩く子じゃなかった。
話題にすることがなかったわけではないが、初対面の人間に こんな砕けた様子で話しかけたりすることはなかった。
本当に親しい友人以外の者たちには癖のように敬語で通したし、そもそも これでは彼はホテルの従業員としても失格ではないか。
俺の瞬は、対峙する人間が もう少し打ち解けてくれてもいいのにと願うほどに、礼儀正しい子だった。
彼の仲間たち以外の者には。

落胆しつつ、俺は日本語で彼に尋ねたのである。
「君は日本語が話せると聞いているんだが」
「はい。普通の日常会話ならできます。でも、最近の俗語なんかは、よくわからなくて」
シュンも言葉を日本語に変えて答えてくる。
イントネーションは綺麗な標準語だった。

「十分だ。では頼む。俺のことは、氷河と呼んでくれ」
「氷河……」
確かめるように、シュンが俺の名を口にする。
これは俺の瞬ではないと確信したばかりだというのに、瞬の声で名を呼ばれることに、俺は軽い目眩いを覚えた。
彼は俺の瞬ではない。
瞬ではないことは わかっていたのに。






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