さて、そういうわけで。
氷河の雄叫びとアテナの賢明な提案によって、とりあえず不和の女神エリスに呪いをかけられたアテナの聖闘士たちの今後の対応方針は決まりました。

「ごめんね。僕が飛べないばっかりに」
仲間たちの、文字通り“お荷物”になることが決定した瞬は、今は人外のものの姿をしている彼等に謝罪せずにはいられませんでした。
瞬がせめてスズメの聖闘士だったなら、飛べない人間である我が身を仲間たちに運んでもらう必要はなかったわけですからね。
瞬が、お姫様である自分を申し訳なく思う心は、ある意味、当然のことだったでしょう。

「気にすんなって。ちょうどすることがなくて退屈してたとこだったし、遠足に行くんだと思えば、道中が楽しみなだけじゃん」
もちろん星矢たちは瞬を責めたりはしませんでしたよ。
彼等は、瞬に嫌な顔一つ見せませんでした。
これが瞬に非のあることではないことは、星矢たちもわかっていましたから。
もっとも氷河だけは、自分が自力で瞬を運ぶことのできない白鳥だという事実に憤って、不機嫌そうにクチバシをとがらせていましたけれどね。

そんな氷河に ちらちらと ためらうような視線を投げていた瞬は、やがて思い切ったように彼に尋ねたのです。
「氷河は、こんな僕は嫌いになっちゃったでしょ……」
瞳に涙をたたえ、女の子にしか見えない顔をした瞬に(元からです)、そう尋ねられた氷河は、その途端に、たった今まで自身の非力に腹を立てていたことを忘れてしまったのです。
瞬の言葉があまりに意外だったせいで。

なにしろ、万々が一 不和の女神エリスの呪いを解くことができなかったとしたら、お姫様に愛想を尽かされることになるのは、鳥類になってしまった自分の方だと、彼は思っていましたからね。
瞬の懸念は――たとえそれが「そんなことはない」という答えを期待してのものだったとしても――実に馬鹿げた懸念だと、氷河は思いました。

ですが、ここで、「おまえこそ、こんな俺が嫌になったんじゃないのか」と尋ね返せないところが氷河なのでした。
だって、それじゃあまるで、無理に瞬に「そんなことないよ」と言わせようとしているようでしたから。
鳥類が人類にそんな期待を抱くなんて図々しい――と、氷河は、いつもの彼らしくなく ちょっとばかり卑屈な気持ちになっていたのです。

そんなふうな気持ちのすれ違いのせいで、結局互いに黙り込むことになってしまった二人の間に、ペガサスが馬面を突っ込んできます
そして、彼は罪の無い顔で(もちろん馬面です)瞬に言いました。
「でもさ、もしかしたら、瞬は女の子のままでいた方が何かと都合がいいんじゃないのか?」
「え?」
星矢の言葉の意味が、最初瞬はよくわかりませんでした。
やがてその意味を理解し、理解した途端に瞬は声を失ってしまったのです。

そして、それは、実は氷河も同じでした。
ここでもし、「男の方がいい」と言うと、現在少女の身体をしている瞬が傷付くことになり、それはまた、万々が一 不和の女神エリスの呪いが解けなかった時、“男の瞬を好きな氷河”から“少女である瞬”を遠ざける要因になってしまいます。
かといって、「女の方がいい」と言うと、少年だった瞬に向けてきたこれまでの彼の愛情が疑われることになり、それはまた、首尾よく 不和の女神エリスの呪いが解けた際、“女の瞬を好きな氷河”から“少年に戻った瞬”を遠ざける要因にもなりかねません。

かくして氷河は その沈黙を守り続けなければならない羽目に陥り、彼の沈黙は瞬の瞳に涙を運ぶことになってしまったのでした。
この場合、氷河はやはり、多少のリスクは覚悟の上で、「男のおまえの方がいい」と言うべきだったでしょう。
そう告げることで、彼は少なくとも、これまでの彼の愛情に対して瞬の心に疑念を抱かせることはせずに済んだはずです。

これまでの愛情が嘘偽りのないものだったと瞬に確信させることができれば、未来の愛もまた支障なく育まれるもの。
けれど氷河は、あまりに多様な将来のリスクを考慮しすぎ、またそのリスクをすべて回避しようと考えて沈黙を守ったために、瞬を悲しませることになってしまったのです。
氷河の その過ぎるほどの慎重が、人外のものに成り果てた仲間たちの前で、瞬の瞳から ぽろぽろと涙をこぼさせることになってしまったのでした。

それでなくても弱い瞬の涙腺は、女の子にさせられてしまったせいで更に弱くなっていたのかもしれません。
あるいは、この異常事態が、瞬を常よりも心弱くしてしまっていたのかもしれません。
花のように可憐なお姫様の姿をした瞬が、か細い肩を震わせて さめざめと涙する様子を想像してみてください。
それは、あの一輝ですら、「男なら泣くんじゃない!」と言うのをためらわずにはいられないほど、少女マンガな光景でした。
熱血・粗野・大雑把を身上にしている少年マンガの登場人物たちには、とてもではありませんが足を踏み入れる勇気を持つことのできない繊細・華麗な世界だったのです。

星矢たちは、一応フェミニストということになっていました(もっとも星矢は、『フェミニスト』なる言葉の意味も知りませんでしたけれど)。
一輝だけはそうではないことになっていましたが、今 彼の目の前で泣いているのは彼の最愛の弟(現在は妹)です。
彼等は、できることなら、すぐにでも瞬の側に駆け寄り、その肩に手を置き、涙するお姫様を慰めてやりたかったのです。
でも、彼等にはそうすることができませんでした。

少年マンガと少女マンガの間には、高くて見えない壁がある。
瞬のいる場所と瞬の仲間たちのいる場所の間には、まるで天にも届くほど巨大なクリスタル・ウォールがそびえたっているかのようでした。
繊細・華麗な少女マンガの世界は 星矢たち少年マンガの世界の住人には侵し難く、結局 彼等は瞬の傷心を慰めることができなかったのです。

もっとも、一輝が勇気を振り絞って少女マンガの世界に足を踏み入れ、傷心のお姫様を慰めたりしていたら、彼の全身を包んでいる灼熱の炎が最愛の弟(現在は妹)の心だけでなく身体にまで害を為していたでしょうから、それは結果的には良いことだったのかもしれません。
ヤマアラシのジレンマならぬフェニックスのジレンマが、お姫様を火傷の危機から救ったことになります。

間抜けな不和の女神エリスがアテナの聖闘士たちにかけた呪いは、彼等の間に不和の種を撒くことはできませんでしたが、瞬の心の中に、氷河の愛情を疑う思いを生ませることはできてしまったのでした。






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