ハーデス王と山賊たちによる瞬誘拐事件があってから、アテナの聖闘士たちは非常に用心深くなりました。
どうやら、お姫様というものは、お姫様だというだけで、苦難が降りかかってくるようにできている厄介なものなのだということを、彼等はここに至ってやっと理解したのです。
とはいえ、これまでの誘拐劇は瞬を一人きりにしさえしなければ避けられたことでしたから、彼等はそういう状況を作らないことで、それ以上のトラブルを回避しようとし、それは成功したのです。

そうして、聖域を出て2週間後、彼等はついにヘスペリデスの園に辿り着き、無事に黄金のリンゴを手に入れることができたのでした。
星矢たちはもちろん大喜びで、たわわに実る黄金のリンゴにかじりついていきましたとも。

「戻ったーっっ !! 」
半月振りの人間の身体に、彼等が狂喜したことは言うまでもありません。
自由に空を飛びまわることのできるペガサスや龍や不死鳥や白鳥でいることも、そう悪いものではありませんでしたが、やはり生まれた時から親しんできた本来の我が身は他の何物にも代えられないもの。
星矢と紫龍と一輝と氷河は、元の姿に戻るとまず、両手の指を曲げたり伸ばしたりして、数分前まではヒヅメだったり翼だったりしたものが確かに人間の手に戻っていることを確かめ、安堵の息を洩らしたのでした。

瞬だけが――最初から人間の姿を保っていた瞬だけが――手にした黄金のリンゴを見詰め、無言で俯いたまま、その場に立っていました。
「瞬?」
瞬が何をためらっているのか、アテナの聖闘士の中でただ一人だけわかっていない星矢が、いつまでも元の姿に戻ろうとしない瞬の様子を訝り、その名を呼びます。
星矢に名を呼ばれた瞬は、ゆっくりと その顔をあげました。
そして、瞬は、今は人間の姿に戻った氷河の顔を見あげ、彼に尋ねたのです。
「僕、どっちでいた方がいい?」
――と。

氷河の答えは、
「それは俺の決めることじゃない」
というものでした。
その答えに、瞬がまた顔を俯かせます。

女の子のままでいれば、瞬は、ハーデス王が執着していた“結婚”という形式を、氷河との間に築くことができました。
女の子のままでいれば、瞬は、あの山賊たちの望みだったらしい子供を、氷河に与えることができるかもしれません。
女の子のままでいることでアテナの聖闘士としての力を失うことになっても、彼の仲間たちは、この旅でそうしてくれたように、非力なお姫様を守り続けようとしてくれるでしょう。
女の子でいれば、瞬は、その非力ゆえに他人に傷付けられることはあっても、あれほど嫌っていた“人を傷付ける”という行為をしなくてもよくなるかもしれないのです。

瞬は迷っていました。
いつまでも決断できない瞬の迷いを見兼ねたように、氷河はやがて ゆっくりと口を開きました。
「俺が欲しいものは、おまえを独占する権利でもなければ、おまえとの子供でもなく、おまえ自身だ。おまえは、おまえという人間をどういうものだと思っている? どういうものでありたいと望んでいるんだ? おまえは、おまえのなりたいものになればいい。多分、それが俺の好きなおまえだ」

「僕がなりたいもの……」
瞬がこうありたいと願う自分の姿。
それはアテナの聖闘士であることでした。
この気持ちは、疑いようもなく、また揺るぎのないものでした。
仲間たちと共に在り、共に戦い、無力な人々の恐怖を少しでも薄らげてやることのできるものになりたいと、瞬は熱烈に望んでいました。
ただ、自分の望みが、もし氷河の望むことと違っていたとしたら――瞬は、それが恐かったのです。

『おまえは、おまえのなりたいものになればいい。多分、それが俺の好きなおまえだ』
氷河にその言葉をもらったにも関わらず、瞬はまだ少し迷っていました。
でも。
結局瞬は、自分が手にしていた黄金のリンゴにかぷっと歯を立てたのです。
途端に、瞬の胸のささやかな膨らみは消え、瞬の身体は元の少年のそれに戻っていました。

「あの……」
そうして瞬は、恐る恐る、いかにも自分の決定の是非に自信がなさそうな目をして、氷河に尋ねたのです。
「氷河は……男の子の僕でもいいのかな」
氷河はもちろん、嬉しそうな笑顔を浮かべて、男の子の身体をした瞬をしっかりと抱きしめてくれたのでした。






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