ヒョウガがバーデン大公国の皇太子の側を片時も離れず、その身を護衛するのは、祖国と皇太子への忠誠心のみによるものではなかった。 それだけではないことを、宮廷内の誰もが知っていた。 今から時を遡ること16年。 ダルムシュタット公国からバーデン大公国大公の許に嫁いできた大公妃は、国中の誰もが待ち望んでいた男子を出産した。 国中が世継ぎの誕生に歓喜したりも束の間、だが、彼女は大公国に皇太子を与えるという重責を果たした半月後、産褥から出ることのないまま帰らぬ人となる。 大公は、国の未来を担う皇太子の育児を 亡き大公妃の侍女に委ね、彼女はその務めに熱心に励んだ。 その後の2年の間に、大公と侍女の間に何があったのかは、王宮の外にいる国民はもちろん、宮廷内で重要な地位に就いている廷臣たちも知らない。 ともかく皇太子誕生から2年後、大公は前大公妃の侍女を後妻として迎えたのである。 前大公妃の侍女――現大公妃は、まもなく男子を出産した。 大公が侍女あがりの女を正式な妃に迎えたことを表立って批判する者は、誰もいなかった。 大公国には、ダルムシュタット公国のプリンセスであった前大公妃の産んだ 血筋正しい皇太子がおり、その皇太子は、侍女あがりの現大公妃に育てられたのである。 彼女が分をわきまえた良識的な女であるなら、自分の育てた皇太子をないがしろにすることはあるまいと、良識的な人々は 良識的なことを 至って良識的に考えたのである。 しかし、多くの人々の予想を裏切り、実子を得た彼女は、大公の血を引く我が子をバーデン大公国の大公の地位に就けることに野心を燃やし始める。 彼女は、最初のうちは、自らの野心を ごく控えめな方法で実現しようとしていた。 一人で歩きまわれるようになった皇太子を 軍馬の闊歩する馬場の真ん中に置き去りにしたり、皇太子の体調が思わしくないことに気付かぬ振りをして医者を呼ばずにいたり、冷たい雨の日に屋外で遊ぶことを奨励してみたりと、万一 皇太子が命を落とすことになっても、周囲の者たちの“不注意”で済むような やり方で。 しかし、健康この上ない皇太子は、現皇太子妃の必死の努力(?)にも関わらず、心身の健全を保ち続け、そのために、大公妃のやり方は徐々にエスカレートしていくことになったのである。 皇太子に食事を与えず、それで空腹を訴えた彼にわざと腐った菓子類を与えてみたり、皇太子の寝台に刃物の類を紛れ込ませてみたり。 それは、もはや“不注意”では済ませられないレベルの行為になり、腐った食べ物が毒入りのものになり、鋭いナイフが現大公妃の手に握られるようになるのも時間の問題と思われた。 そんな時、大公が病に倒れ、彼女の行動はいよいよ大胆に、いよいよ あからさまになっていく。 宮廷での地位に野心を持つ貴族たちの前で、 「私の息子が大公の地位に就いたら、あなた方のご希望を叶えてさしあげることも可能でしょうに」 と、彼女は呟き始めたのである。 当時、大公直属の近衛師団長の職に就いていたヒョウガの父は、侍女あがりの大公妃の 殺人をも是とするほどの野心に いち早く気付き、病の床にある大公にその事実を注進した。 病の床で その報告を受けた大公は、彼の後妻の狂気じみた野心に気付いていた。 気付くどころか、彼は、自身の病も現大公妃の企みによるものではないかと疑ってさえいたのである。 大公が亡くなれば彼女は大公妃としての地位を失うことになるのであるから、皇太子が存命のうちに彼女が夫の命を奪うことは考えにくかったが、皇太子を取り除くという彼女の企てを成功させるためには、宮廷内に大公の目が行き届いていない方が何かと都合がいい。 そのために、彼女は夫の健康を損なわせる何事かを為したのではないかと、大公は察していた。 ナポレオン戦争とそれに続くウィーン会議時代に、卓抜した外交手腕で、バーデン辺境伯家を選定候家、ついには大公家にまで押し上げた名君の苦悩は深かった。 現大公妃は第二皇子の実母である。 そして、皇太子に万一のことがあった時には、当然皇太子の腹違いの弟が大公の地位に就くことになるだろう。 まだ幼児である第二皇子が、母の悪事に加担していることは考えられない。 その母を罪人として捕らえることは、彼女の息子が大公位に就く可能性があるかぎり、できることではなかったのだ。 大公の母が罪人であってはならない。 結局、母のない皇太子の命を守るために、大公は消極的な対抗策を 大公は、ヒョウガの父に命じ、国外での幼年教育を名目に、皇太子を陰謀渦巻く宮廷から遠ざけることにしたのである。 大公は、皇太子を誰に託し、彼がどこで教育を受けているのかを、宮廷内の誰にも決して明かさなかった。 その秘匿振りがあまりにも徹底しすぎていたため、王宮の内外では、皇太子は既に大公妃によって暗殺され、大公はその事実を隠そうとしているのだという噂が流布することになったのである。 |