- II -






そうして、対立する二つの陣営に身を置く二人は いわゆる恋人同士というものになったのである。
ヒョウガは最初、それをさほど重大なこととは考えていなかった。
聖域は、数千年の昔から、ギリシャの地に根をおろし、連綿と存在し続けた巨大な組織・機構であり、聖域の内には黄金・白銀・青銅 各階級の聖闘士たちも多く居を構えている。

アテナを名乗る少女に自分と同じ青銅クラスの聖闘士が幾人か従っていることはヒョウガも聞いていた。
たが、アテナの村の住人も、村には住むことなく彼女を支援している者たちも、その大部分はアテナの語る理想を信奉するだけの非戦闘員である。
聖域とアテナの戦いの勝敗や雌雄を決すること以前に――このままアテナの村が その喉元に存在し続けたとしても、聖域はびくともしないのだ。
あえて聖域に決戦を挑もうとしないアテナと その信奉者たちは、いずれ彼等の野望を諦め、その存在意義を見失い、四散することになるだろう。

アテナの組織が崩壊した時には、シュンを聖域に住まわせるようにすればいい。
シュンは人好きのする性格で、気立てもよく美しい。
そういう住人が聖域に一人増えたところで、誰も文句は言わないだろう――。
ヒョウガはそう考えていたのである。
シュンも自らが住む村が消えてしまえば、恋人の許に身を寄せることに否やは言うまい――と。
シュンは聖域を憎んではいないようだった――彼の信じるアテナ同様に。

ヒョウガの楽観が崩れたのは、彼がシュンの家に通う時間が昼から夜に変わってしばらく経った頃だった。
聖域とアテナの村のちょうど中間に当たる地点で、聖域の白銀聖闘士がシュンを捕らえようとしている場に、ヒョウガは出くわしてしまったのである。
「何をしているんだ! いくらアテナ側の人間でも、戦う力を持たない者を傷付けることを、教皇は固く禁じているはずだぞ!」
ヒョウガがシュンに手をかけようとしていた白銀聖闘士の腕を掴み、怒鳴る。
その時ヒョウガは聖衣を身につけていなかったのだが、彼はヒョウガが何者であるのかに、すぐに気付いたようだった。
その容貌と、黄金聖闘士に師事しているせいもあって、ヒョウガは聖域の中でも何かと目立つ存在だったのだ。

「手柄を横取りするつもりか? 青銅聖闘士風情が口を出すな。これが戦う力を持たない者だと? この か細い坊やを誰だと思っている。聖闘士でありながらアテナの側についている聖域への反逆者の一人だぞ」
『聖闘士』はもともとアテナに従って戦う闘士に与えられる称号である。
白銀聖闘士の言葉は矛盾していた。
だが、ヒョウガはその矛盾に気付かなかった。
その大いなる矛盾に気付く余裕もないほど――彼の言葉はヒョウガを驚かせたのである。

「シュンが……聖闘士だと?」
「名前くらいは聞いているだろう。アンドロメダの聖闘士。アテナの命を貰い受けにいった白銀聖闘士が何人も、こいつに返り討ちに合っている」
「アンドロメダの聖闘士? まさか!」

ヒョウガもその名は聞いていた。
アテナに従っている聖闘士は10人に足りないほど。いったいどの星座の聖衣を持つ者が彼女の側についているのかは定かではなかったが、唯一アンドロメダの聖闘士の存在だけは聖域中に知れ渡っていた。
戦いの場には滅多に姿を現さないが、いつもアテナの側に控えていて、その防御の技は鉄壁。
アンドロメダ座の聖闘士がいるために聖域の聖闘士は誰ひとりアテナに危害を加えることができず、それどころか、拳の届く場所にまで近寄ることすらできずにいる。
アンドロメダ座の聖闘士は拳を振るうのではなく、空気を操るという噂だった。

「まさか……」
シュンがそのアンドロメダの聖闘士だと言う この男は目が見えていないのだろうかと、ヒョウガは思ったのである。
シュンは少女のように華奢な肢体を持ち、少女のように頼りなく、野に咲く花を一輪踏み潰すことさえできないような優しい心を持つ人間である。
たとえ平和のためにでも、シュンに人を傷付けるようなことができるはずがない。
シュンが戦うことを自らの存在の証とする聖闘士などであるはずがないのだ。
しかし、シュンと戦おうとしていた白銀聖闘士は、見えていないのはヒョウガの目の方だと確信しているようだった。

「貴様が信じようと信じまいと、それは貴様の勝手だ。だが、俺はアンドロメダ座の聖闘士を倒す。この坊やを倒せば、俺は聖域の英雄と呼ばれることになり、黄金聖闘士以上の栄誉を得ることができるだろう」
言い終わるなり、彼は、シュンに向かってその拳を放った。
「シュンっ!」
その拳からシュンの身を守るために二人の間に割って入ろうとしたヒョウガは、だが、見えない壁にその動きを阻まれた。
海風が陸風に変わろうとする時刻、それまで微風も吹いていなかった空間に、空気の壁がそそり立っていた。

すさまじい速さと勢いで、それは音もなくシュンを襲おうとしていた白銀聖闘士を周囲を取り囲み、シュンの“敵”は気流に身体の自由を奪われてしまっているようだった。
呼吸ができないらしく、空気の壁の向こうで、彼は苦しげにもがいている。
思いがけない展開にあっけにとられ、ヒョウガはゆっくりとシュンの方を振り返った。
シュンは、彼が立っていた場所から一歩も動いておらず、ただ少し悲しい目をして、気流に身体の自由を奪われている聖闘士を見詰めていた。

「シュン……」
ヒョウガに名を呼ばれたシュンが、その切なげな視線をヒョウガの方へと巡らす。
途端に、白銀聖闘士の動きを封じていた気流は消え去り、シュンに挑もうとしていた聖闘士はその場にどさりと崩れ落ちた。
数刻前よりかなり弱まっていたが、小宇宙は感じられる。
彼は死んではいないようだった。
シュンは、格上の白銀聖闘士を相手に戦って(?)、息一つ乱していなかった。

二人が初めて出会った日、ヒョウガはシュンに聖域側の人間と見破られて当然だったのだ。
これほどの力を持つアンドロメダ座の聖闘士を知らない者など、アテナの村には ただの一人もいないに違いない。






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