魔鈴がその場から姿を消すと、瞬は、共に聖域にやってきていた仲間たちを振り返った。
星矢と紫龍と氷河が、南欧の初夏の光を受けて白く輝く石段のあちこちに、思い思いの様子で(一見)くつろいでいる。
鬱陶しい日本の梅雨を避けるという目的のためだけにギリシャに来ていた青銅聖闘士たちは、暇を持て余していた。
そのうち聖域の雑草取りでも始めかねない勢いで退屈している青銅聖闘士たちを見兼ねて、魔鈴は興味深い話題を提供しようという親切心から その話を語ってくれたのだろうが、瞬は正直なところ、そんな話は聞かなければよかったと思っていたのである。

石段に腰をおろし、無言で山を見上げている氷河の横顔を見て、瞬のその思いは更に強まった。
恐る恐る氷河に尋ねてみる。
「亡くなった人を生き返らせたい?」
「誰を? 俺のせいで死んだ者たちをか? 不公平だな」
瞬が心配していたことを、氷河は考えてはいなかったらしい。
瞬が尋ねたことに、氷河は意外なほど動揺の色のない答えを返してきた。

「不公平?」
瞬が尋ね返すと、氷河はちらりと横目に瞬を見てから、彼に浅く頷いた。
「誰の心の中にも、生き返ってほしい人間はいるだろう。しかし、死んだ者すべてを生き返らせるわけにはいかない。それに――もしかしたら、死んだ者には死こそが安らぎなのかもしれないしな」
彼の答えに束の間安心した瞬は、しかし、亡くなった人たちのことを氷河があまりに冷静に語るので、かえって心配が募ってきてしまったのである。
“彼のせいで”亡くなった人たちを、氷河がどれほど愛していたのかを知っているだけに、瞬は彼の冷静さが装ったものに感じられて仕方がなかったのだ。

瞬の懸念を知ってか知らずか、今度は氷河が瞬に尋ねてくる。
「おまえは――誰もが人を傷付けずに済む世界の実現を望むか?」
「え? あ……そうなったらいいとは思うけど、お願いの仕方によっては、大変なことになりそうだね。僕には恐くてできそうにない――」
それは瞬の正直な気持ちだった。
“誰もが人を傷付けずに済む世界”の実現を、瞬はもちろん望んでいた。
しかし、魔鈴のあの話を聞いたあとで、そんなことを迂闊に願うことができるわけがない。

なにより、『人を傷付けずに済む世界』の『傷付ける』の解釈を神々がどう捉えるかで、瞬の願いが実現した世界は全く違ってくる。
人は様々なことで傷付く――どんな刺激によっても傷付かないことなどないと言っていいほどに、人の心身は脆弱で繊細にできているのだ。

『戦いによって傷付くこと』と限ってみても、では『戦い』とは何かという問題が浮上する。
『愛』ですら戦いだと言う人もいるのだ。
そして、その愛という戦いでも人は傷付く。
人は「嫌い」と言う言葉に傷付き、「好き」という言葉にすら傷付く。
人とはそういうもの――そんなふうに、人間というものは実に厄介な生き物なのだ。
だが、それすらもない――愛によって傷付くことすらもない――世界を実現されてしまったら、それは人に生きることを禁じるようなものである。
誰も傷付かない世界を願った人間は、それこそ世界を――すべての人の心を消滅させてしまいかねない。
そんな恐ろしい願いを願う豪胆さも無思慮も、瞬は持ち合わせていなかった。

「魔鈴の話は忘れた方がよさそうだな」
「うん」
氷河の言葉に、瞬は頷いた。
他の誰でもない氷河が――氷河こそが――その話を忘れてくれることを願いながら。
そこに、石段の手擦りに馬乗りになって問題の山の頂を眺めていた星矢が、不満げな声を割り込ませてくる。

「なんでだよー。『食いきれないほどのあんパンくれ』とか願えばいいじゃん」
日本の梅雨が鬱陶しいとギリシャにやってきたまではよかったが、ここには梅干もすき焼きもナットーもない。
星矢は数日前から、キムラ屋のあんパンが食べたいと、事あるごとにぼやいていたのだ。
今 問題の山の頂に立ったなら確実に彼が願うだろう願い事を、星矢は口にした。
星矢の訴えを聞いた瞬の表情が、少し気楽な笑顔に変わる。

「あんパンに埋もれて死ぬことになっても知らないから」
「じゃ、10個」
「10個のあんパンのために、命懸けの冒険に挑むの」
「うーん……」
それが割に合わない冒険だということは、重度のあんパン欠乏症にかかっている星矢にもわかったらしく、彼は瞬の言葉に顔をしかめた。

「1日10個のあんパンを死ぬまで毎日というのはどうだ」
「あ、それいいじゃん」
乗り気になって身を乗り出した星矢に、瞬は軽く首を振ってみせた。
「断言してもいいけど、1年経ったら、星矢はあんパンを見るのも嫌になってると思う」
「それでも出現するあんパンかぁ……」
そこまで言われてやっと、星矢は自分の望みの無益を悟ったらしい。
今は好きなものを嫌いになる願いなど、叶わないに越したことはない――と。

「そういう願い事は、お星様にでも呟いて、忘れてしまうのがいいんじゃないかな。魔鈴さんも言ってたでしょ。願い事は自分の手で叶えろって」
それが、この話の結論なのだ。
瞬は、そういうことにしてしまいたかった。
星矢が末永く あんパンを好きでいるためにも、氷河が悲しい願いを願う事態に至らないためにも。
だが、紫龍が、瞬のその望みを妨げたのである。






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