愛は金なり






「私の命令がきけないというのっ!」
それは、6、7年前であれば、誰の気を引くこともない癇声かんごえだっただろう。
誰もが聞き慣れた、日常茶飯の事ですらある、我儘なお嬢様の甲高かんだかい命令口調だった。――数年前ならば。

「いくら女神でも、そんな命令は理不尽だろう」
そして、数年前ならば、氷河は決して城戸沙織に向かって そんな口答えはしなかった。
城戸邸にいる子供たちに反抗を禁じ、彼等を捻じ伏せていたものは、我儘なお嬢様のヒステリックな怒声ではなく、お嬢様に付き従っている辰巳徳丸という大人の腕力であり、彼をこの家に雇い入れている城戸翁の権力だということを、城戸邸に集められた子供たちは知っていた。
我儘なお嬢様に反論しても無意味なのである。
子供たちにとって脅威である力を持っているのは城戸沙織ではなく、辰巳徳丸であり、城戸光政であったので、自らに押しつけられる理不尽に反抗するだけの気概を持った子供たちは、我儘なお嬢様ではなく、直接 本当の権力者たちに歯向かっていったのだ。

成長した氷河が、今 城戸沙織に反論するのは、ある意味では、現在の彼女が権力者であり、この家での最終決定権保持者だということを認めているからに他ならなかった。
「何が理不尽だと言うのですか! あなたこそ、その子供のような主張をやめなさい。だいいち、あなた方の生活費を出しているのは、この私よ! あなたにそんな我儘を言う権利があると思っているの !? 」
「俺は、地上の平和と、ついでに どこぞの横暴な女神様を守るために命を賭けて戦っているんだ。それくらい当然の報酬だろう」
そんな二人が、互いに自分の主張を譲らず、言い争っている。

不幸にもその大喧嘩が展開されている場にやってきてしまった星矢と紫龍は、言い争う二人を見て、軽く目を見開いた。
ラウンジの隅にある椅子に所在無げに座っている瞬の姿を見付け、こそこそとその側に歩み寄ると、事の次第を尋ねる。

「氷河と沙織さんは何を喧嘩してんだよ? 喧嘩の原因は何だ?」
「喧嘩の原因はピーマン……かな、やっぱり」
「ピーマン?」
女神アテナの化身である城戸沙織と、地上の平和を守るために戦う聖闘士である氷河の言い争いの原因として、瞬が名指しで示したものは珍妙に過ぎる代物だった。
星矢と紫龍はその眉根を寄せることで、自分たちが現状を把握できないことを瞬に伝える。
二人のために、瞬は、より詳細な経緯の説明を開始した。

「今朝のね、朝食のサラダのピーマンを、氷河が食べなかったの」
「はあ?」
「氷河は、夕べも、野菜のマリネのピーマンだけを綺麗に取りのけて、食べなかった」
「氷河の奴、ピーマン嫌いなんだっけか」
ありとあらゆる食べ物をこよなく愛する星矢には、食べ物を嫌う人間の気持ちが、今ひとつ実感として理解できない。
また、ありとあらゆる食べ物をこよなく愛することを当然と認識している星矢には、自分の仲間に食べ物の好き嫌いがあったことが意外でもあった。

「氷河のピーマン嫌いは子供の頃からだよ。で、僕たちの食事のメニューを決めてくれている栄養士さんが、氷河の徹底したピーマン嫌いはどうにかならないのかって、沙織さんに相談して、それで沙織さんが――」
「氷河にピーマンを食えと命じ、氷河は断固拒否しているわけか」
「そういうこと」
「なるほど」

事情はわかった。
やっと現状把握ができた星矢は、まず、二人の喧嘩の理由を知ることができた事実に満足し、大きく頷いたのである。
それから彼は、実に感慨深げに呟いた。
「平和だな〜」
それもこれも、アテナの聖闘士の命懸けの戦いの成果なのだと思えば、他の誰でもない自分自身を褒めてやりたくなる。
それは紫龍も同感のようだった。
ゆっくりと星矢に頷き返し、それから紫龍は――紫龍に一瞬遅れて星矢も――呆れたような顔になったのである。

「氷河が氷河なら、沙織さんも沙織さんだぜ。たかがピーマンのことくらいで、あんなに向きになって、情けねぇったら。仮にもアテナとアテナの聖闘士が!」
「口先だけでも『これから食べるように努力します』と答えておけばいいだけのことなのに、たかがピーマンのことで女神に盾突くとは、氷河も度胸があるというか、無謀というか、恐いもの知らずというか――要するに、馬鹿だな」

星矢と紫龍の見解は至極尤も、かつ常識的である。
仲間たちの反応に短く微かな笑みを向けた瞬は、そんな二人に向けていた視線を、まるで何かを窺い見るようなそれに変えて、氷河と沙織の方へと巡らせた。
「そうだね。でも……」
「でも?」
「氷河、楽しそう……」
「楽しい?」

星矢たちには、瞬がどこか寂しげな目をしてそんなことを言う訳が、よくわからなかった。
大人げなく眉を吊り上げて、譲ることを知らない我儘な子供のように自分の主張を通そうと頑張っている二人は、楽しいかどうかはともかくとして、全く和気藹々という雰囲気ではなかったのだ。






【next】