翌日ヒョウガは、再度 その小さな花園に足を運んだ。
花の精に会えると思ったわけではなく――ただ会いたかったから。
花の精は昨日と同じ場所に昨日と同じように佇んでいて、ヒョウガの姿に気付くと弾かれたように立ち上がり、ヒョウガの許に駆けてきた。
もし再び あの花の精に会えたとして、アテナの聖闘士が彼の側に近付くことは許されることなのだろうかと懸念していたヒョウガには、彼のその振舞いは意想外の喜びだった。

「名前! 僕、あなたの名前を聞いてなかったの!」
白い花の花びらが上気して、薄桃色の花に変わっている。
会いたかった人に気負い込んで名を尋ねられることが嬉しくて、ヒョウガは意識せずに その口許をほころばせた。

「ヒョウガだ」
「ヒョウガ……ヒョウガだね」
一日遅れで知ることのできた名を、花の精が噛みしめるように繰り返す。
それから彼は はっと我にかえったような顔になり、急いで その身に野に咲く花のつつましさをまとうと、僅かに瞼を伏せた。
「ご……ごめんなさい。挨拶もしないで。名前を聞いてなかったから、『ヒョウガにまた会いたい』って思うことができなくて、夕べはすごく不便だったんだ……」
「俺は、『花の精にもう一度会いたい』と思っていた」

「え……」
花の精が、伏せていた顔をあげる。
『もう一度会いたい』と思っていた――同じ言葉を告げられて初めて、彼は自分が 人を困惑させるようなことを口にした事実に気付いたようだった。
少し戸惑ったように一度視線を横に泳がせてから、彼は小さな声で恥ずかしそうにヒョウガに告げた。
「あ……あの、今度から『シュンに会いたい』って思ってくれたら嬉しい」
「シュン」

それが、花の精の名前らしい。
知らされた名を用いて、ヒョウガは今の自分の気持ちを素直にシュンに告げた。
「シュンにまた会えて嬉しい」
「僕も! 僕もヒョウガにまた会えて嬉しい……!」
花が咲くように――まさしく そういう風情で――シュンはヒョウガに明るい笑顔を向けてきた。
シュンの笑顔――昨日知り合ったばかりの男との再会を喜んでくれるシュンの笑顔は、ヒョウガの心を弾ませるものだった。

この笑顔を曇らせたくはない。
ヒョウガは、自分がアテナの聖闘士だということを、彼には知らせずにおくことにした。
そうすることが、二人のこの出会いを幸福なものにしておくための最善の策である。
ヒョウガはそう考え、その考えを実行した。

おそらくヒョウガの判断は賢明なものだった――のだろう。
おかげでヒョウガは、シュンに、
「昨日は、もっとここにいればよかったって、あとになってから後悔したの。でも、あの音……あの音が恐かったから。でも、恐くてもずっとヒョウガと一緒にいればよかったって思った」
と言ってもらうことができたのだ。

「ただの遠雷だ」
「うん……」
そうではないことを、ヒョウガは知っていた。
昨日、あの遠雷が聞こえた時刻、ミコノス島でポセイドンの海将軍とアテナの聖闘士の大きな戦闘があった。
遠来の聖闘士のために聖域内に用意された宿舎で、昨夜ヒョウガはその事実を知らされた。
敵は かろうじて撃退できたが、ミコノス島にあった神殿が一つ瓦礫の山と化したという話だった。

「アテナが……ポセイドンとアテネの町を争っているんでしょう」
「らしいな。アテネの町の住人は、町の守護神が女神アテナだということに満足し、誇りを持っている。そんな町をなぜ我が物にしようと望むのか、ポセイドンの考えていることはわからん」
「いつか、ここも戦場になるのかな」
「……アテナの聖闘士が守ってくれるだろう。各地に散っていたアテナの聖闘士たちが、聖域に集結しつつあるという話だ」
「そうだね……」

ヒョウガ自身が、この戦いに参戦するために北方からやってきた聖闘士の一人だったのだが、彼はあえて 風聞を語るアテネ市民の態度を装った。
ヒョウガの金髪はどう見てもギリシャより北方の国の民のそれだったのだが、彼の身に着けているギリシャ風の丈の短い外衣クラミュスが、ヒョウガの印象をそれらしいものに見せてくれているはずだった。

「あの……」
厚手の絹でできたヒョウガのクラミュスの肩布をつまみ、シュンが困ったような素振りを見せる。
「どうかしたのか?」
「あ、ううん。あの……もっと別の、何か楽しい話をして。昨日の1億年前に使い古されたセリフの話は、すごく面白かった」
「……」

シュンは、戦いの話は嫌いらしい。
実のところヒョウガは、戦い以外の事柄に大きな関心を抱いたことはなく、戦いに関すること以外に気の利いた話ができる男ではなかった。
が、今はヒョウガも、ここでシュンと戦争談義をしたいとは思わなかったのである。
シュンのために、ヒョウガは即座に戦いになど興味のない男の顔を作った。
「俺は笑い話を提供するために、あんなことを言ったわけじゃない。花の精だと――本気でそう思ったんだ」
「僕だって、本気でそう思ったよ」
「じゃあ、俺たちは二人共、ここでは花の精だということにしておこう」

シュンに住まいや仕事を尋ねられ、アテナの聖闘士という正体を知られる危険が生じないようにするためにも、それは有効な提案だった。
ヒョウガの真意に気付いていないのだろうシュンは その提案が気に入ったらしく、楽しそうに笑って頷いた。
が、すぐに、その首を横に傾ける。

「でも、花の精は毎日何をして過ごしてるんだろう?」
つい、『戦いじゃないことだけは確かだな』と言いそうになったヒョウガが、その答えが全く“面白く”ないことに気付き、慌てて口に出しかけた言葉を呑み込む。
花の精の仕事――シュンにもわからないことが、アテナの聖闘士などという“花”とは対極の位置にいる男にわかるはずもない。
それでも、花の精の振りをするために、ヒョウガは懸命に花の精にふさわしい仕事を考えた。

「何も考えずに健気に咲いて――」
「花の精って退屈かな?」
「案外、他の花の精に恋でもして過ごしているんじゃないのか」
「え」
弾みで口を衝いて出た――何も考えずにぽろりとこぼれ落ちた――ヒョウガの言葉に、シュンが瞳を見開く。

澄んで大きなシュンの瞳に見詰められ、ヒョウガは我知らず たじろぐことになってしまったのである。
唐突に『恋』などという言葉を出してしまった己れの不用意に舌打ちをし、こんなことでシュンに警戒心を抱かれることを、彼は恐れた。
が、一度口にしてしまった言葉を消し去る方法も思いつかず、ヒョウガはシュンに見詰められたまま、シュンを無言で見詰め返した。

逸らすことのできない視線――。
シュンの瞳に映る金髪の男は、これほど可憐で清らかな風情をした花に出会って、恋をせずにいる方が不自然ではないかと、開き直り始めていた。
さっさとその事実を認め、シュンに気持ちを伝えてしまおうと考えたヒョウガが 僅かに唇を開きかけた時。
また、どこかで遠雷の音がした。

シュンがびくりと身体を震わせる。
「シュン?」
「ぼ……僕、帰らなきゃ」
「シュン……!」
半ば かすれた悲鳴のような声で、シュンをこの場に引き止めるために、ヒョウガはシュンの名を呼ぶことになってしまったのである。
シュンが続けて、
「明日も会えるかな」
と言ってくれなかったら、ヒョウガはシュンの腕を掴みあげ、無理にもシュンを自分の側に留め置こうとしていたに違いなかった。

「ああ」
明日も会える――。
『戦いさえ起こらなければ』という条件つきではあったが、明日も二人はここで出会えるのだ。
そう 自分に言いきかせ、ヒョウガは必死に自らの逸る心をなだめ、落ち着かせた。
恋など知らぬげなシュンに性急に好意を求めることは危険だ――と、恋らしい恋もしたことのないヒョウガの本能が、ヒョウガに警告を発してくる。

賢明にも、そして かろうじて、ヒョウガはその警告に従い、自身を律することができた。
戦いさえ我が身に降りかかってこなければ、二人には明日があるのだ。






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