なるべく自らの姿を人目にさらしたくない――というのが、一輝の願いだったろう。
その日の夕刻、一輝が仲間たちと共に夕食をとるために青銅聖闘士たちの集うダイニングルームにやってきたのは、であるからして、彼が弟の気持ちを思い遣った結果であったに違いなかった。
仲間たちと顔を合わせることを避けて自室に引きこもり、壁に向かって ひとりもくもくと食事をとる兄の図――などというものを瞬の脳裏に思い描かせることで、最愛の弟の心を沈ませることのないようにと、一輝は考えたに違いない。

瞬を気遣う一輝の気持ちは、痛いほどによくわかる。
そして、一輝の姿は奇異である。
一輝はもちろん、自分の姿を仲間たちに笑われたくはないだろうが、もしかしたら、いっそこの事態をギャグの一種として笑い飛ばしてほしいと願う気持ちを抱いているのかもしれない。
奇矯な格好をした一輝の健気な心根を最も傷付けないために、自分たちにできることは何だろうと考えれば考えるほどに、星矢たちの迷いは深まった。
笑えばいいのか、あるいは沈痛な表情を浮かべればいいのか――。
その判断を為すことができなかった星矢たちは、結局、顔を引きつらせて、表情とも言い難い表情を浮かべることしかできなかった。

それはさておき。
一輝が瞬に連れられてダイニングルームにやってきた時、正直、氷河は、瞬の兄に対して感嘆の念を抱いたのである。
一輝がその滑稽な姿を仲間たちの前に再びさらしたのは、ただただ瞬のためである――ということは、氷河にもすぐにわかった。
そして、氷河は、もし自分が一輝の立場にあったらとしたら、はたして 自分は瞬のために男としてのプライドを捨てることができただろうか――という問いを、自分に投げかけることになったのである。
そうすることは自分にもできるかもしれないし、結局のところ自分は一輝同様、瞬のために己れのプライドを放棄するだろう――と、氷河は思った。

しかし、それらの考えはすべて想像の世界でのこと、単なる仮定文にすぎない。
『瞬のためにプライドを捨てる』という行為を、現実に実行している一輝の姿を目の当たりにした氷河は、瞬の兄に対して明確な敗北感を覚えることになった。
そして、彼は、多大なる同情心を瞬の兄に対して抱いたのだった。

――それ・・が一輝だということを、氷河は決して忘れていたわけではない。
ゆえに、彼に悪気はなかった。
むしろ、彼は、この時に限って言うなら、一輝を尊敬してさえいた。
それは悪意から出たことではなく、氷河の身についた癖であり、一般常識として習い覚えた習性にすぎなかった。

すなわち。
とにかく女性が食事のテーブルにやってきたのだからと、氷河は、つい何気なく、一輝のために食卓の椅子を引いてやったのである。
もとい、引いてやってしまったのだった。

途端に一輝は無言のまま怒りの小宇宙を燃焼させ始め、その小宇宙は、食卓の中央に飾られていたフルーツ皿のリンゴを一瞬にして焼きリンゴに変えてしまった。
甘い匂いが辺りに漂い、それがまた彼の苛立ちを大きくしたらしく、一輝の右手が焼きリンゴの載ったフルーツ皿を乱暴な仕草でテーブルから払い落とす。

「兄さんっ! そんなことで取り乱さないでください! あんまり おいたをすると、僕、今度から兄さんのこと、お姉さんって呼びますよ!」
瞬の叱咤で、一輝は、自分が物に当たるなどという非常に“男らしくない”ことをしてしまった事実に気付いたらしい。
彼は、その瞳に怒りとやりきれなさをたたえて、唇をへの字に結ぶことになったのである。

いったい何が一輝の気に障ったのかが、実は星矢にはわからなかった。
かつては女性特有の疾患であり、その原因は子宮にあると思われていたヒステリー。
まさしく そのヒステリー症状を起こした一輝の姿を見詰め、星矢はぽかんと あっけにとられた。

「な……なんなんだ?」
「氷河に女扱いされたのが嫌だったんじゃないのか」
「だって、女だろ」
それが事実なだけに、悪気のない星矢の言葉は、一輝の神経に障ったらしい。
彼はぴくりと こめかみを引きつらせた。
瞬が、兄(姉)と仲間たちの顔を交互に見やってから、困ったような顔で星矢に兄(姉)の乱暴な振舞いの理由を告げる。

「あの……女性扱いもだけど、一輝兄さんはもともと、僕以外の人に親切にされるとパニックを起こすようにできてるの」
「……傍迷惑な」
今日初めて知らされたその事実に、紫龍が簡単な感想を告げる。
彼は、そして彼の仲間たちも、今の今まで一輝のそんな傍迷惑な性癖を知らずにいた。
その事実を今まで一輝の仲間たちが知らなかったということは、仲間たちの誰もが一輝に“親切に”したことがなかったということになる。
彼等はもちろん、一輝をないがしろにしていたわけではなく、彼に冷たく当たり続けてきたわけでもなかったのだが、なにしろ一輝は、他人に親切をさせる隙を与えない男だったのだ。

それはさておき、一輝のその傍迷惑な性癖の事実は、氷河には実に有益な情報だった。
一輝が兄でも姉でも構わない瞬に説教を食らい、ふてくさった表情を呈しながらも神妙にしている一輝の姿を その視界に映しながら、氷河がにっと、見るからに嫌らしい笑みで口許を歪ませる。
氷河の北叟笑みを目ざとく認めた星矢は、これまた非常に嫌そうな顔になった。
「氷河。おまえ、一輝にせいぜい親切にしてやろうなんてこと考えてないか?」
「瞬の兄が窮状にあるんだ。力を貸してやりたいと思うのは、瞬の恋人として当然のことだろう。その上、相手は か弱い女性だし、俺は一輝と違ってフェミニストだ」

氷河がフェミニストかどうかということはともかくとして、自分はフェミニストではないと公言していた男が、女になったという理由で他人に親切にされてしまったら、彼(彼女)は それこそ怒髪天を衝いて怒り狂うことになるだろう。
その結果、周囲の人間は、新鮮なリンゴが焼きリンゴになるくらいでは済まない とばっちりを受けることになる。
そして、一輝が兄でも姉でも構わない瞬とは異なり、星矢は、男である一輝が好きだった。
一輝が女性になってしまっただけでも調子を狂わされているというのに、これ以上のごたごたは御免被りたい――というのが、星矢の正直な気持ちにして心からの希望だったのである。






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