が、氷河は、瞬以外の仲間の気持ちや希望に頓着する男ではない。
氷河は、その日その時から突然、瞬の兄(姉)に対して異様なほど親切な男に変貌してしまったのである。
一輝が席に着く時には必ず椅子を引き、一輝が持ち運ぼうとする荷物は箸以外ならすべて自分が持とうとし、部屋のドアも車のドアも一輝には開けさせない。
もし一輝の行く手に ぬかるみが出現したならば、氷河は、エリザベス1世に対するサー・ウォルター・ローリーのように、自分が身に着けているマントをぬかるみの上に広げ、一輝の足元が汚れることを阻止していたに違いなかった。

当然一輝は、氷河に“親切に”されるたび、怒りと屈辱のせいで茹でダコのように顔を真っ赤にすることになった。
しかし、氷河の似非フェミニスト振りをアルトの声で責め立てても 氷河に嘲笑されるだけだということがわかっているだけに、一輝は彼を怒鳴りつけることもできなかったのである。
そして、そんな一輝の様子を見ることが愉快でならない氷河は、毎日誇らしげにテノールの笑い声を辺りに響かせることになったのだった。

氷河は一輝に親切にしているだけなので、瞬としては氷河を責めることができない。
結果として瞬は、一触即発状態の氷河と兄を はらはらしながら見守り続けることしかできなかったのである。
そして、一輝に対する氷河のそんなふうな振舞いを見ているうちに気付いたことが一つ。
「そう言えば、僕、氷河といる時に自分の手で部屋のドアや車のドアを開けたことがなかったけど、あれって、僕が氷河に女の子扱いされてたってことなんだ……」
それは、瞬にとってはあまり喜ばしいことではなく、できれば永遠に気付かないままでいたかった事実だった。
そんなことに今頃気付いて気落ちしている瞬に、紫龍がこっそり苦笑する。

「おまえに対する氷河のあれは、おまえを女と見ているからじゃなく、おまえがおまえだからだろう。それがどんなに些細なことでも、氷河はおまえのために何かできることが嬉しい男なんだ。一輝に対する奴の親切も、今のうちだけだ。男に戻ったら、そもそも氷河は一輝に近寄ろうともしないだろう」
「嫌がらせとしちゃ最高だよな。氷河は か弱い女に礼を尽くしてるだけなんだから、良心の呵責も感じないんだろうし」

世間の常識や慣例に沿った“親切”をしていても、そして、当人に悪気や害意がなかったとしても、その行為を受ける側の人間が不愉快と感じたら、それは立派な嫌がらせであり、この場合はセクハラですらある。
すべては、その行為を受ける側の人間の心次第。
人が人に親切を為すということは、ことほど左様に難しいことなのだった。






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