「兄さんは兄さんですよ。何があったって、どんな姿をしていたって、兄さんは、僕の大切な優しくて強い兄さんです」
「……」
瞬がそう言ってくれるだろうことは、一輝にもわかっていた。
わかっていたからこそ、一輝は つらかったのである。
いっそ瞬が『女になった兄さんなんて、僕の兄さんじゃない!』と言ってくれたなら、一輝は瞬を『細かいことにこだわるな、男らしくない!』と一喝することもできたのだ。

「瞬。だが俺は……」
それでも、男らしい兄として おまえの前にいたかった――と、言っても詮無いことを一輝が(アルトの声で)言おうとした――時。
突然、小脇に『ギリシャ・ローマ神話大事典』を抱えた沙織が、興奮した様子でラウンジに飛び込んできた。

「一輝、喜びなさい! 元に戻る方法がわかったわ!」
重さ10キロはあろうかという重い書物をどさりとセンターテーブルの上に放り投げ、沙織が『テイレシアス』の項を、一輝に指し示す。
「なにも本人に聞かなくても、文献がいくらでも残っていたのよね。ほら、ここ。『キュレネーの山道で絡み合う2匹の蛇を杖で打ったテイレシアスは女性に変わり、7年後再び蛇を打った彼は男性に戻った』。同じ行為を反復するということは、彼の作為によって変わってしまった事態を旧に戻すということだと思うの。つまり、あなたは、あなたが交尾を邪魔した2匹の蛇を見付け出し、あなたのせいで中断されられた行為を2匹に完遂させてやればいいのよ!」

沙織の言葉を聞くなり、一輝は、弟と仲間たちのいるラウンジから、無言で、そして脱兎のごとく駆け出していた。
瞬や沙織が引き止める間もあらばこそ。
城戸邸から、更には日本から飛び出した一輝は、脇目もふらずにギリシャに向かい、普通なら到底無理なことのはずなのに、だが執念で問題の蛇たちを見付け出し、彼等の宿願を叶えてやったのである。
『戻った』という短い伝言――バリトンの声の伝言――が城戸邸の固定電話に入ったのは、一輝がギリシャに向かってから僅か4日後のことだった。






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